我こそは批評王、ではない?  美術批評篇

対談=佐々木敦×星野太[第二部]

佐々木敦『これは小説ではない』/『批評王』刊行を機に

今年『小さな演劇の大きさについて』(pヴァイン)『これは小説ではない』(新潮社)を刊行した佐々木敦氏。八月末には『批評王 終わりなき思考のレッスン』(工作舎)が刊行され、さらに二冊の刊行を控えている。また年初の批評家リタイア宣言、初小説「半睡」(『新潮』四月号)も話題に。三十年、さまざまな批評を手掛けてきた佐々木氏に、美学・表象文化論を専門とする星野太氏と、縦横無尽にたっぷり批評について語っていただいた。※本対談前半は8/141・2面掲載。今回は美術批評篇。(編集部)


アートはアートである 美術批評は困難なジャンル

佐々木 星野さんの書く批評の対象には、自分が知っているものも、知らないものもありますが、常にその対象についてきちんとした知識に支えられていて、それでいてその外部があることも感じられる文章なんですよね。その対象だけで完結していない。
 僕は昨年『アートートロジー』を出しましたが、そこで「アートはアートである」という、マルセル・デュシャンのアート観を用いました。このトートロジーは、アートと呼ばれるものに常に通底している論理だと思うんです。後半では二〇〇七年水戸芸術館の「マイクロポップの時代」展について取り上げていますが、この展覧会に際していろいろな問題が露出したけれど、日本のアート界はそれをうまく処理できずいまに至っているのではないかと思うんです。ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』以後の話や、ソーシャリー・エンゲイジド・アートについても、それ自体というよりは日本における受容のされ方に、問題意識があって触れています。星野さんの『コンテンポラリー・アート・セオリー』収録論文「ブリオー×ランシエール論争を読む」では、ブリオーのことやジャック・ランシエールの論争のことも書かれていて、とても参考になりました。
 アート界だけ考えても、『関係性の美学』以後、倫理の問題、コンプライアンスの問題が、芸術について考えたり、あるいは芸術を作る際に、かつてとは比較にならないレベルで前景化していて、それをどう受け入れるのか、処理するのかが重要になってきていますよね。星野さんは、芸術批評の中でいまのところ闘っていると思いますが、美術批評の系譜と現在については、どう見ているのですか。
 
星野 私が現代美術と出合ったのは、椹木野衣さんの仕事がきっかけです。椹木さんが九九年から二〇〇〇年にかけて水戸芸術館で企画した「日本ゼロ年」を高校生のときに観たのが、現代美術との最初の遭遇でした。<つづく>

★ささき・あつし=著述家。音楽レーベルHEADZ主宰。文学、音楽、演劇、映画ほか、諸ジャンルを貫通する批評活動を行う。一九六四年生。
★ほしの・ふとし=早稲田大学社会科学総合学術院専任講師・現代哲学・美学・表象文化論。著書に『崇高の修辞学』。一九八三年生。



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