目次

    part1

    part2

『やってくる』(シリーズ ケアをひらく・医学書院)
刊行記念対談

郡司ペギオ幸夫・大澤真幸

part1

 ビワの木が黒々と生い茂るかつての病棟アパート、壁一面に鉛筆書きの矢印が描かれた部屋で深夜に突然響き渡る「ムールラー♬」の歌声――。日常体験からダイブし、現実の裏側にある過激でスペクタクルな思考を素手でつかみ取る。郡司ペギオ幸夫氏の新刊『やってくる』が医学書院から刊行された。八月一九日、本書の刊行を記念して、代官山蔦屋書店で著者の郡司氏と社会学者の大澤真幸氏によるオンライン対談が行われた。大澤氏は郡司氏の前作『天然知能』(講談社選書メチエ)に続き、本作でも対談のお相手として『やってくる』への導き役を務め、自在な読み解きを展開。現在の閉塞感を吹き飛ばす「天然知能」全開の対談となった。その一部を抄録する。(編集部)
《週刊読書人2020年10月2日号掲載》

『やってくる』
郡司ペギオ幸夫著
A5判・312頁・2000円
978-4-260-04273-4



 日常から出発する/同じなのに違う

 大澤 郡司さんの新著『やってくる』(医学書院)ですが、滅茶苦茶面白かったです。郡司さんは前作『天然知能』あたりから、一般の人にもとてもわかりやすい文体になってきて、本作でさらに磨きがかかったと思います。郡司さんとは長い付き合いになりますが、ずっと、郡司さんの言葉をよく理解できる人が世界中に三人くらいしかいない中で僕がそのうちの一人だという自負をもってきたけれど、これで一気に何万人かに増えるのではないでしょうか(笑)。

 この本は、一見マイナーなことを扱っているように見えてしまうのですが、実は極めてオーソドックスな哲学的テーマを扱っています。ただ、仮に理論的な部分がわからなくても、この本は面白い。郡司さんのいろんな体験談から入っているのですが、まず、これが楽しめます。郡司さんの体験談を中心としたエピソードは、一見極めて異常に見えるのだけれど、大事なのは、例外的に感じられるそれらの体験がいかに普遍的かということに気づくことです。それがわかると、自然と理論的な理解になる。

 ではどんなことが書いてあるか。たとえば、「同じ」とは何か。ここにペンがありますね。少し時間をおいてまたペンを見て、これは先ほどのあの同じペンだ、と僕らは認識する。このことを説明するのに、普通はこんなふうです。前のペンを見たときに知覚したり、感覚したりした色とか形とか触感とかが、後のペンとよく似ている。置かれている場所は異なるけれども、背景となるコンテクストを思うとこの違いは無視できる。これらから、前に見たペンと後で見たペンはまったく同じだと認識される。

 しかし、郡司さんのこの本によるとこの常識的な説明はまちがっている。実際には、感じることと認識することとの間に、絶対に解消できないズレや矛盾がある。たとえば、何だかそれは自分が知っているあのペンだと感じるわけですが、厳密に同一だと認識できるものは一つもない。このズレや矛盾が、このコンテクストの中にはない外部を招き寄せる。つまり感じることと認識することの間に矛盾があるがゆえに、外部が「やってくる」。「同じである」ということは、そうしてやってくる外部の一つです。

 この本の中に郡司さんのパソコンの話が出てきます(第二章)。これは「同じ」性ではなく、別のものが外部からやってくる例です。郡司さんはパソコンを失くしてしまったと思って、次の日研究室に行くと、パソコンがそこにあるわけです。自分のパソコンと同じ傷もついているし、記録されているものも同じ。普通なら自分のパソコンが見つかったと思うんだけど、あまりにも同じすぎておかしい、と郡司さんは感じる。認識のレベルで同定できるすべてが、自分のパソコンであるということを示しているのですが、あまりにも寸分違わずそうなるので、かえって自分のものではないという感じが深まっていく。ここから、何かとてつもない陰謀が起きているのかもしれないという話に展開していくわけです。感覚(自分のものではない)と認識(寸分違わず同定できる)との間の矛盾があるため、外部から「陰謀説」がやってくる、というわけです。

 あるものが「同じ」ものとして存在しているかという問題は、存在論の根本的主題です。「感じる」と「認識する」の関係は認識論の主題。存在論と認識論は哲学の最も重要な基礎部門。そうした哲学のベースに対して、郡司さんは今まで誰もやらなかったようなアプローチで迫っている。

 郡司 ありがとうございます。この本は日常的な話から始まっているというところがポイントなんです。通常であれば立論するときには論理構成をガッチリ作ってから、それを運用する、実践するというやり方を取りますが、そういうやり方がそもそもまずい。そうではなくて、もっと日常的なところから出発する。つまり日常では何が同じで何が違うかということをきちんと腑分けして使っているわけでもなく、なんとなく使っている。なんとなく「ある場合には同じであり、ある場合には違ってもいい」と、それは適当にやっているとしか思えない。しかしよくよく考えてみると、「同じ」の原理と「違う」の原理があって、その間を行ったり来たりしているという話なのかといえば、そうではない。その間にある種の文脈というものを想定しようとすると、その文脈自体が「ある意味で同じであり、ある意味で違う」というアンチノミー(二律背反)そのものとしてあるんです。それこそが同一性と差異というものの間をくっつけたり離したりするような何かとしてあって、それがあるからこそ何かを呼び寄せているわけです。

 認識と感覚にしても、普通はこれが水だということは、ここに水があって(認識)、確かに冷たくて(感覚)一対一でつながっている。しかしそれだけでなく一見対立するような二項対立的なものでありながらもつながってしまうようなことがわれわれの世界には溢れています。ある場合にはつながっているし、ある場合には離れているというような形があって、それをどうやって関係づけられるのかと考えると、外部から何かがやってくるという形でしか構想できない。そういうふうに考えると、日常的なことと非日常的なことがつながっているような、そういう話として展開できる。ですから日常的な言葉で問題設定をして攻めていくところから出発して、言葉の一つひとつが明瞭に定義立てできないからこそ、一見対立しているような問題がつながることもありえる。この本ではそういうことをやっているのです。


 バウンダリー(境界)とフロンティア(前縁)

 大澤 さて、今日は本の流れとは逆の道を歩む作戦で対談しようと思います。本は七章構成になっていて、一章、二章が非常に重要でそこをきっちり押さえるとこういう図式だということがまずわかってくるのですが、今日は最後の章から入ろうと思います。この章で、郡司さんの図式の力というものがはっきり出てきます。最終章の主題は死です(第七章「死とわたし」)。事例としてシェリー・ケーガンの有名な死の講義(『DEATH』(邦題『「死」とは何か』)について、死とはそんなものではないという郡司さんの話が出てくる。「わたしの死」はわたしの経験のコンテクストの中で絶対にアイデンティファイできない。ここで外部という概念が特に生きてくる。

 郡司さんはそれを境界(バウンダリー)と前縁(フロンティア)に区別して論じています。バウンダリーは、こちら側とあちら側との間に引かれる線ですが、重要なのは、両方の側を認識できるということです。しかしフロンティアは違う。例えば水平線を思うとよい。僕らは水平線の向こうを見ることができない。つまり、フロンティアでは、こちら側しかわからない。にもかかわらず、僕らは向こう側があると思う。どうしてかというと、こちら側だけではすべてではないと直観しているからです。死はフロンティアです。僕らは生というこちら側しか知らないわけですから。

 でも、僕らは、普通、フロンティアもバウンダリーに引きつけて、バウンダリーの類比で考えてしまう。するとフロンティアの向こう側も、バウンダリーの向こう側のように実体化された一つの領域として捉えられてしまう。死に恐怖を感じるときの「死」は、こうやって実体化されたフロンティアの向こう側でしょう。でも、バウンダリーへと引き寄せてあちら側を実体化することを徹底して拒否したらどうなるか。そうすれば、純粋な外部が得られる。内部に還元されないほんとうの意味での外部が、です。郡司さんの線で考えると、死というのは、そのような外部ということになると思う。

 さらに、この本では、日常的なさまざまな経験の中で、外部がやってきている、ということが書かれています。外部の中の外部というか、外部の極限が死だということを考えあわせると、ある意味で、僕らは常に死に関わっている、ということになる。

 郡司 最終章で死という形で出てきていますが、基本的には最初に言っていた「認識と感覚」、「問いと答え」のようなことと同じ問題だということが明かされていくわけです。フロンティアで水平線の向こう側にあるらしいものを怖がるというのは、実は向こう側とこちら側という意味での境界というものをよく知っているがゆえに、それとは違うものとして水平線の向こう側(つまり死)というのが怖いわけです。しかし、境界と前縁、その両方のことだけで行ったり来たりすれば良いのではなく、想定しているフロンティアですらないものが実は徹底した外部というものであって、われわれが死を受け入れるというのはそういうことだろうと。

 これは別に死だけでなく対話などでも同じなんです。最後の方にTさんとの事例が出てきますが、Tさんがパトカーの写真を見せて「これなんだ」と問う。パトカーと言うとそっぽ向くのに、僕があるときパトカーの写真を見せられて「カブトムシ」と言ったら抱きついてきた。その「カブトムシ」こそが問いでもあり答えでもあるし、逆に問いでもないし答えでもない。不安定な文脈のわかりやすい装置のカブトムシがあるときにこそ、その間にやってくる理解、外部というものが成立する。