とりっくおあとりーとエアー

文芸〈十月〉
荒木優太

小谷野敦「蛍日和」/今村夏子「噓の道」

 一〇月号の五大誌には、いわゆる新人の小説がなかった。プライベートではいつも、毎月毎月期待の新星どんだけいんねん、と愚痴ってるのであまり偉そうなことをいう資格もないのだが、いなかったらそれはそれで寂しいものだ。新しい風が吹き込まなければ業界が先細っていくことは世の必定だ、くらいの苦言は述べておこうか。
 気を取り直して。松家仁之「泡」(すばる)は、呑気症の不登校高校生が叔父の喫茶店の手伝いをするというモラトリアムを経て再出発に踏み出すまでを描いたもの。こんな文章がでてくる。「人類はアフリカで生まれ、地球を転々と移動しながら広がっていったものらしい。人種のちがいは単なる枝分かれと進化の結果で、すべての出発点であったアフリカ大陸から考えれば、黒人奴隷も白人もルーツは同じことになる。だとするなら、これまでの人類は、おおきな地球を覆う海のようなものではないか。海はすべてつながっている」。

 これを読んでふとルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』を思い出した。ルイ・アガシという生物学者の人種差別的性格を分析しながら、メナンドは人類の多元発生説も単一起源説もともに差別的に運用可能であった歴史を指摘する。多元説は遺伝子の根本からしてヤツラはワレラとは違うのだ、と言えるし、単一説は同じ種なのに身体に差ができるのは退化の比率に由来している、と言える。単一であるからこそ進歩した種と衰退した種を並べてしまえる。松家作は表題が指すように「泡」を中心的なイメージに据え、風呂の中のオナラ、レントゲンに写った気泡、そして末尾に出てくる打ち寄せた波が引いたあとの「小さな泡」など、イメジャリー的な数珠つなぎで全体を統合するものの、海―波―泡の連鎖のなかでその同一性だけが取り出されてくることにはやや物足りなさを覚えた。同じなのに違うという難問にもう少し踏み込んでも良かったのでは。

 小谷野敦「蛍日和」(文學界)では、重度の愛煙家である中年小説家と東大の大学院生であった二一歳下の幼妻・蒔田蛍との愉快な結婚生活がつづられる。数々の爆笑エピソードに比べれば地味だが、自転車の空気の入れ方を知らない蛍がバルブにはめる黒いキャップによって空気を止めていると勘違いして急く場面に惹かれた。いうまでもなく、キャップがなくても空気は抜けない。それを分かっていながら早くはめなければ気がすまない童心が愛らしい。ただし、小説は幼妻の無邪気を愛でるに終わらず、彼女の成長の先に来るかもしれない別れの予感を漂わせる。痔になった小説家が蛍につきそわれて病院に向かうさなか、老人ホームを前にした彼女が「あたしは将来ここに入ろうと思ってるんだ。でも半世紀も先のことだな」と言うのに対して、小説家は「私は、あと二十年くらいはこの人と生きていきたいな」と考える。半世紀(五〇年)にはあと三〇年足りない。これは一方では性欲によって恋が成立するとする小説家の持論から導かれたリアリズムなのかもしれないし、他方では単著を刊行し博士号をとって着実に前進を重ねる妻を想ったすえの年限なのかもしれない。愛が前世や永遠といった観念と結ばれなければ愛たりえないとするRADWIMPS的世界観の隆盛のなかで、年限つきの愛は不純のように見えながらも観念の軽さに負けない確実な重みをもつ。蛍の一人称「僕」は交通事故を経て「わたし」に変わる。彼女がキャップをなくしたまま平気で自転車を走らせる日もやがて来るのかもしれない。その予感があるからこそ、タイヤと必須でないキャップが、それなのに一対になっていた結婚生活の一齣ひとこまが美しくよみがえる。秀作。それにしても、知り合いに「めんどくせえ」と陰口を叩かれ怒る場面があるが、この小説家が面倒くさいことは誰がどう見ても明らかなことだ。

 今村夏子「噓の道」(群像)には驚いた。学校は勿論のこと各家庭でも嘘つきとして除け者にされている与田正。「いじめをなくそう!」の全体目標が課された瞬間、掌を返したように与田に親切を惜しまないクラスメイトたちに混ざって「僕」の姉もポイント稼ぎに余念がない。ある日、姉は道に迷う老婆に噓の道を教えたことで、結果的に老婆に大けがを負わせてしまう。犯人と噂された与田は再びいじめのターゲットとなり、姉は登校拒否のすえ自宅に引きこもるようになる。数年後、姉のもとに届いた同窓会の手紙を頼りに「僕」は当時仲良くしていた「リサちゃん」に電話をかけてみるのだが……。最後の一ページですべてがひっくり返る。いくつかの解釈のルートがあろうが、一度としてこんなこと起きなかったのに、ああこんなことあったなあ、と思わせる寓話化の手際込みで素晴らしい。先立つ「とんこつQ&A」(群像七月号)でも他の作家には真似できないユニークな不気味世界を造り上げていた。すごい。遅ればせながらその才気を知った。(あらき・ゆうた=在野研究者)