人新世を受け止める感覚と思考を

篠原雅武インタビュー

『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(講談社選書メチエ)刊行

 京都大学大学院総合生存学館特定准教授で、哲学を専門とする篠原雅武氏が、『「人間以後」の哲学 人新世(じんしんせい)を生きる』(講談社選書メチエ)を上梓した。人類が自然を征服し繁栄を遂げていくことで、地球規模で環境が変化している時代に、どのような思考や生き方が求められているのか。現代の哲学者たちの議論を踏まえ、建築や現代美術の作り手とも対話しながら、人間の条件を問い直す本書のモチーフについて、お話を伺った。(インタビューで言及されている哲学者グレアム・ハーマンの『思弁的実在論入門』の書評(飯盛元章氏)を4面に掲載)(編集部)
《週刊読書人2020年10月9日号掲載》



自然が回帰するリアリティー
環境危機をどう受け止めるか


 ――「人間活動が地球のあり方を変え、人間の活動力の総体が地球の諸力に匹敵するようになった時代としての「人新世(じんしんせい)」が提唱されて、すでに二〇年が経とうとしている」(38頁)なかで、そこで生きる人間の条件や世界像を再検討していく、難解な本だと感じました。本書執筆の経緯をお聞かせください。

 篠原 本書を書こうと思い始めたのは二〇一七年の夏でした。このとき、二〇一八年に刊行した『人新世の哲学』をほぼ書き終えていたのですが、その続きを書こうと思い立ったのです。そこで重視したのは、グレアム・ハーマンやカンタン・メイヤスー、ティモシー・モートンをはじめとする現代的な哲学を、世界に関わる思考として読み解くことです。つまり、現代の哲学・思想の動向の概要をまとめることを一方の課題としつつ、他方では、それらを人新世的状況という世界の変化を考えるものとして読み解き、自分なりの考察として提示するということです。

 ――「人間から離れた、他なるものとしての世界」は、「人間が住みつくところとしての世界でもある」(25頁)と書かれていますが、それをどのようにイメージすればよいでしょうか。

 篠原 それは「惑星的なもの」としての世界だと思います。近代的な世界像では、人間世界と自然世界は別々なものとして考えられている。そして、自然世界は安定的な背景と見なされていて、そこが土台になって、人間世界が成り立っていると考えられている。でも、現代の環境危機は、自然が不安定になり、人間世界に侵食し、揺さぶるものとして存在しつつあることを突きつけている。今回とくに主張したかったのは、人間世界をとりまいている広大な世界がリベンジしてきている、回帰してきているということです。温暖化や巨大台風、水害などの気候変動が起きるなか、私たちは、猛威を振るう自然、畏怖すべきものとしての自然と出会いつつあります。自然が回帰してくることのリアリティーを、どのように受け止めて、言語化するかということが私の一貫した課題でした。
 それを考えるときに導き手になったのが、ディペッシュ・チャクラバルティの「歴史の気候」という論文でした。人間と自然の境界の崩壊は、必ずしも二つの世界の一致、連続性を意味しない。むしろ、人間世界と相関しない、生命的、地質学的な領域において、人間が生きてしまっていることを突きつけてくる。これは、アーレントを読みつつ「人間の条件」を考えていた私には斬新な議論でした。
 また「人新世」をめぐって、欧米の科学者たちの間で、パウル・J・クルッツェンとユージン・F・ストーマーの論文「the“Anthroporocene”」(二〇〇〇年)、クルッツェンの論文「Geology of Mankind」(二〇〇二年)をはじめ、次々と議論が出てきています。チャクラバルティも、彼らの議論を人文社会科学の議論として受け止めることから自分の考察を行っています。自然科学の領域で議論されている、人間が地球のあり方を変えていき、そのことによって大規模な災害が起こっているということをどう受け止めたらいいのか。その事態が人間にとってどういう意味をもつのか。そこで人間がどういう経験をすることになるのか。たとえば40℃近くに気温が上昇するとき、たしかに自然科学ではそれを40℃というデータとして記述できますが、40℃以上の気温のなかで人間が生きているという、その経験のあり方をどう考えたらいいのか。これが私の「人新世の哲学」の基本にある問いです。<つづく>

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★しのはら・まさたけ=京都大学大学院総合生存学館(思修館)特定准教授。専門は哲学。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。著書に『生きられたニュータウン』『複数性のエコロジー』『人新世の哲学』など、訳書にティモシー・モートン『自然なきエコロジー』など。一九七五年生。