「改組 新 第7回日展」開幕

国立新美術館で11月22日(日)まで開催中
陶芸家 森野泰明氏インタビュー

 明治四十年の第一回文展より数えて、今年一一三年を迎える日展。今年は、多くの公募団体が展覧会の中止を決めるなか、日展では日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の五部門にわたり全国から応募された作品の入選者ならびに日展会員などの作品約三〇〇〇点が国立新美術館に一堂に会す。

 日展顧問で京都の陶芸家・森野泰明氏のアトリエを訪ね、これまでの歩みを伺った。京都、東山の五條坂は、江戸時代から陶芸の町として栄え、十七、八基の登り窯が並んだ。陶工、卸問屋、小売商が軒を連ね、登り窯の煙の煤で町中が黒くなっても苦情の出ないにぎやかな街だったという。森野さんの家もその地で祖父の代から陶芸家として続いてきた。しかし、五十年ほど前、町中での登り窯が禁じられ、清水焼団地へと移った。大学卒業後は単身アメリカに渡り、教鞭を執ったことも。陶業六十五年、森野さんは世界的に活躍されている陶芸作家である。

二十八歳で陶芸を教える

 森野さんは昭和九年に京都の五條坂で陶芸家の家に生まれた。小学六年生のときには戦争で、丹波の山奥のお寺に半年ほど学童疎開をした。丹波の寺には応仁の乱など都の戦禍をのがれて仏像の頭等が運び込まれていた。当時、食料は十分でなく、野草を摘んで食べ、修学旅行もなかった。旧制中学の最後の世代で、その後、京都市立美術大学陶磁器科に一九五四年入学。富本憲吉先生らのもとで学び日展には四回生の時に入選。一九六〇年には特選を受賞した。専攻科を二年で修了後、志願して一九六二年にアメリカのシカゴ大学へ陶芸の教師として渡った。まだ自由渡航ができない時代のことである。

「我々は小学校までは軍国主義で、終戦でコロッと価値観が変わり、それまでの敵国へ羽田から一人で行きました。日本のやきものは、中国や朝鮮半島を通って展開した経緯があるのです。五條坂の人たちからは『アメリカに行っても陶器の勉強にならないではないか』とも言われました」

 一九六〇年代のアメリカは凄まじいエネルギーを秘めていた。政治、経済、軍事、化学、文化は力強く、活力に満ち溢れ世界の中で燦然と輝いていた。

 同時に、師匠の富本先生は若い時にイギリスに留学したことから、いつも外国の話をされていた。それで外国に対して自然と興味を持ち、日本の外も見てみたいと思い、アメリカの十の大学に「私を雇ってほしい」という作品のスライドと手紙を出したという。

 すると三つの大学から返事がきて、翌年の三月にはシカゴ大学にいた。陶器の講座を全部任され、三時間教えて、あとは仕事場で自分の作品を制作して展覧会をしたり作品を売ってもいいという条件だった。英語はなかなかうまくできないが、実技を教える立場だったため楽しかったと、当時の写真やバーナード・リーチからの手紙も見せていただいた。二度にわたり計三年半をアメリカで過ごした。「無鉄砲でしたが、チャンスを掴まなければと思いました」と語る森野さん。そのバックボーンとなるのは五條坂というやきものの町、そして手仕事の町、京都である。「京都には各宗派の本山が存在し、仏具などを造るものづくりの歴史が築かれていました。それを支えたのが名もなき職人たちでした」。元々は公家文化の素地があって、町衆の力がある。

「京都で生まれ育っているから、そういう遺伝子や京都の美意識はあると思っていますが、日本の外から日本を見ると、自分が生まれた所がどんな所かがよくわかる。こうした経験は自分の肥やしになりました」。


京都の伝統と革新

 伝承と伝統は同じではないが、伝承は繰り返しで、ものづくりに慣れると制作工程が体得でき、ひとつの方程式ができる。そうして安定して仕事ができていくが今度はそれがブレーキになって次の新しいものに踏み出せないことがある。

「ただ京都のやきものは常に変貌しています。仁清、乾山があって、磁器は奥田潁川、青木木米、戦後は新しい運動が起りました。今の京都は他府県の人がたくさん入ってきています。かつては、日本各地から職人たちも集まってきました。そのうちに彼らは京都風に同化してしまう。それが京都のもつ文化力といえるでしょう。東京は人や情報が集まってきますが、京都の一体感のある文化力は全く異質のものです。京都は包み込む力が強いから、他人の血を入れて都市が育っていくのです。実力があれば必ず認められる。同時に伝統的な文化があり、双方の両輪がうまく回っているのが京都です」

 森野さんの話は、五條坂で過ごした過去に遡った。

 やきものの町で、周りにたくさん職人さんもいて小さいうちから見聞きしていたことが役に立ったという。コミュニティの中には魚屋、米屋、乾物屋、郵便局もある。その人たちは、もうもうと煙が出ても、中で生活しているから文句ひとつ出ない。「雨の日などは軒を這うようにして、タンスの中にまで煤が入るような町だったのです。ただものを作るだけの工業団地ではなく生活感もある。散髪屋があり質屋があり、市場もある。車も自転車もない。江戸時代から続いていました」。

 今はだんだん、そういうコミュニティがなくなった。

 登り窯は京都独特で何軒かが一緒になって一つの窯を焚く。薪窯を焚くのは窯焚き専門の職人であって、その結果、焼成後の善し悪しを、窯焚き職人の薪のくべかたが悪いとか、いや、陶工の窯詰めの仕方が悪いと言い争いになることもあった。

「登り窯の火が入るときはお神酒を供えてそこに祈りがあったわけです。しかし一九六五年頃に公害条例ができて、薪窯が禁止されました。私が住む清水焼団地ではすべて電気とガス窯です。

 現在、陶芸を志す者は、職人として入ったり陶芸家について学ぶのではなく、大学で勉強する。私の場合は元々近所全てがやきもの関係です。大きくなったら陶器を作る家業を継ぐと子供時分から思っていて、何の疑問もなかったです。私のじいさんもやきものをやっていて、父もそうで、息子が今やっていますけれど、孫は違うところに就職しました。時代と共に変わってきましたね」。


やきものの中にある日本人の感性

 ご自身の作品については「釉薬の魅力を生かしながら装飾とフォルムとの絡み合いの中で色彩、模様、素材の全てが響きあう一体感のある作品を作りたい」と語る森野さん。

 やきものは見て美しさにひたるだけでなく、花瓶や茶碗など、使う行為のいとなみのなかで、手の感触をめでる、楽しむ。それが日本人独自の美意識である。「お酒のぐい吞やお茶碗も口当たりがいいとか悪いとかいいます。また自分専用の箸や茶碗がある。これは外国にないわけです。そこにも日本人の感性があると私は思うのです」。

 昔から言われたのは、土の声を聴きながら、土に寄り添いながら、それを作品にしようという感覚で、これは日本のやきものに共通した伝統的なものだという。ところが現代では、産地や材料の扱い方、手法がわからないものも出てきて、独自の表現を強調している。「それは無理もない、時代の流れで、材料と対話するのではなくて、個を大事にしているのですね」。

「美術館の中で自立完結するアートがあるでしょう。しかし、工芸品にとって美術館というのは借りの空間で、工芸品であるべきものは次に行くべき、人と交わる空間があって然るべきなのです。だから、受け手の知識、感性が豊かであったら跳ねのけられるかもしれない。長谷川等伯の襖絵も絵画であると同時に生活空間を潤す工芸品でした。硯箱でも何でも自分が使う空間のためのものは全部注文品でした。日本の伝統はそこにあるわけです」。用の美である。「ただ作品を作るときはそのようなことは意識しません。四苦八苦です。考えていたら手が動かない。そんなことで、工芸の概念も変わってきたわけです。

 そして、手の仕事だからプリミティブです。結局、量産できないし、同じものは二つできない。この手が道具なのです。手は何千何百という表現をしてくれる。掴む、そして空手などは武器になる。ネジを回せる。手で触るとわかる。指先はものすごく敏感で貴重なのです。字は書ける、ものは持てる、仕分ける、創造精神が働いたら創作ができる。こんな便利な道具はないです」。


紐づくりとオリジナルの釉薬

 ギリシアから帰ってきたという作品、扁壺「潮路」がまだ箱に入ったまま居間に置かれており、開けて説明してくださった。全部一面にブルーの釉を施して、その上に黒の釉薬をかけるから下からブルーが出てくる。また作品の別の場所は、黄色の下からブルーが出てきている。ブルーを際立たすために、ロウで抜き、他の釉薬がかからないようにする。波文は全体の形から模様的にこれくらいの分量が必要と見極めていく。

 釉薬はトルコブルーなどのブルーが二色、さび色、蕨色、黒色の五種類を二重がけにし、違うパターンや色を出すという。「土を触り造形を作るのは基本的に決まっているので、装飾の部分でいかに新しいオリジナルの釉薬を作るかです」。

 ろくろではまん丸になるが、紐づくりではどんな形でもできる。「日本人は歪んだものが好きで、茶碗でもちょっと歪んだものに味があるとかいいます」。

 アトリエで、森野さんがその場で作られた紐は瞬時に均等な幅になった。「均等にいくのは六十何年毎日やっているから。紐づくりによる手びねり成形は、指先で確認する手仕事の集積です」。形を作るのに四、五日、乾かすのに二週間ほど。

 材料と友達になることが大切。土の硬さは自分の好きな硬さに手で練ればいい。そしていくつ釉薬を使うか、どんな模様を施すか。次は窯に入れる工程がある。窯の詰め方で焼け方も違う。やきものの特徴は自分の手を離れるということだ。

「たとえばタイルや衛生陶器はムラがあったらいけないからきれいに焼けますが、私たちにとっては変に焼けるほど面白い時がある。それがやきものです。窯に入れたら手から離れる。昔の登り窯だったら炎にゆだねなければならない。窯出しをして初めて自分で確認する。『やきものなんて他力本願じゃないか』という人もいます。しかしそれも計算済みで、この温度で、この釉薬で焼いたらこう出ると、自分の方へ引き寄せて窯に入れるので、窯任せとは違うのです。釉薬を調合して青くなるにはこの顔料を入れて、何度で焼いたら出ると。二重に釉薬をかけた場合には下からブルーが浮き出て来る。真っ黒よりも深みがある。そういうことを頭に入れて、自分なりの経験をもとに作業をするわけです」


「もう一遍やるか」の気持ちで六十五年

 制作の発想と原点を尋ねると、「キザに言ったら、素材があって自分との対話のようなものだね。自分の作りたいものを作る。失敗もある。だから続くわけです。窯の失敗もあるし、窯に入れる前にちょっと傷がでたり。失敗があるから『もう一遍やるか』と六十五年続いてきました。満足してうまいこといっていたら続かないです。たくさん出来損ないがあります。それが面白いもので、出来損ないと思って置いておいたら、日が経ったらよく見えるときがある。そんなものです。絵描きさんは最後に筆を置くときに迷う。私などは火の神さんに任さなければならない。どこで仕事をしても、京都でもアメリカでも工程は一緒。窯から出すときは楽しみであり不安。よかった、というのはそうはないのです」。

 かつて座右の銘は「不曰堅乎、磨而不磷(堅しと曰わずや磨すれど磷がず)」。堅いものはこすっても薄くならないという意味の論語で、「自分さえしっかりしていたらどんな環境に置かれても自分を見失うことがない」だった。今は単純に「命より健康」。健康でずっと仕事をすることである。

 森野さんは膨大な作品写真の整理やメールもご自身でされるという。「健康の秘訣は食べ過ぎないこと。目標は米寿展。元気だったらいつまででもやりたいと思います」と終始笑顔で語ってくださった。(取材・文/松井文恵)

★もりの・たいめい=1934年、京都府生まれ。1958年、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)卒業。1960年、同大学専攻科修了。1957年、第13回日展初入選。1960年、第3回日展「青釉花器」により特選・北斗賞受賞。1966年、第9回日展「花器『藍』」により特選・北斗賞受賞。2007年、第38回日展出品作「扁壺『大地』」により日本芸術院賞受賞。2019年、旭日中綬章受章。現在、日展顧問、日本芸術院会員。

改組 新 第7回日展
2020年10月30日(金)~11月22日(日)
◇場所/国立新美術館(東京メトロ千代田線乃木坂直結、大江戸線六本木駅徒歩約4分)
◇時間/午前10時~午後6時(入場は午後5時30分まで)
◇休館日/11月4日(水)、10日(火)、17日(火)
◇入場料/一般1300円、トワイライトチケット/一般400円(午後4時~6時)
◇お問い合わせ 03-3823-5701
*東京展の後、京都、愛知、大阪に巡回予定