思索する人/知の探究者
追悼=宇波彰

寄稿=四方田犬彦

 宇波彰氏がこの一月六日に逝去された。氏は優れた哲学者にして文化記号学者、旅行家、そして優れた教育者であった。長らく高校で教員を務めた後、明治学院大学、札幌大学で教授を歴任。フランスを中心とする現代思想を教えたが、それとは別に、独自に哲学研究会を主宰された。

 研究会のメンバーは十数名。記号学者から音楽評論家、さらに元日活女優のパフォーマーまで実に多彩だった。最初は元の勤務校の一室を借り、最後には多摩湖畔にある主催者本人の自宅を開放して行われた。この会は主催者が八八歳を目前に亡くなる直前まで、ベンヤミンからラカンにいたる思想家を準拠枠として十数年にわたって開かれ、そこでの思索が基盤となって最晩年の大著『ラカン的思考』が生れた。「門弟三千人」という言葉は、まさに宇波氏のために考案された表現であるように、わたしには思われる。

 著作は十七冊。今、書斎からすべてを取り出してきて、論じられている対象の多様さに、改めて驚かされる。ポスト記号学に基づく文学批評に始まって、写真、建築、さらにデザイン論、コンピューター・メディア論に及んでいる。執筆形態もさまざまで、たとえば後期の著作『力としての現代思想』と『ラカン的思考』とは、まったく対照的なスタイルのもとに書かれている。前者は「ミメーシス」「鏡像」「崇高」……と、現代思想の鍵となる言葉を求心論的に論じているが、後者ではシニフィアンが別のシニフィアンに向かうという無限記号連鎖が、エクリチュールの方法論として採用されている。表題にラカンの名があるが、凡百のラカン解説書とは大違いで、むしろ援用されているのはパースであり、その可謬主義(人間の認識に誤りがあっても、それをデカルト的に咎めず、意図的に曖昧さのもとに留め置く考え)である。

 翻訳書は現代フランスの哲学、言語学、社会学、文学批評を中心に二七冊。モランとボードリヤールが多いが、一九七四年に『ベルグソンの哲学』『プルーストとシーニュ』を翻訳し、日本で最初のドゥルーズ紹介者となったことの功績は大きい。生物学者モノー、人類学者ベイトソン、文化研究のスチュアート・ホールまで手掛けていることは、まさに驚嘆に値する。わたしの記憶の中で、宇波さんは会うたびにいつも別の洋書を携えていた。パリから帰って来たばかりのわたしが、刊行直後で書店に平積みになっていたディディ=ユベルマンのエイゼンシュテイン論をお見せすると、その次にお会いしたときには、ああ、あれはすぐに取り寄せて読んじゃいましたよと、サラリといってのける読書家だった。

 宇波彰は東京大学文学部で山口昌男、ナムジュン・パイクと同級生だった。パイクのことは、いつも学生服をキチンと着て、教室の一番前で講義を聞いている秀才の白君が、まさかあんなにユーモアのある芸術家になるとはねえと、懐かしそうに語るのを聞いたことがあった。山口昌男とは長い親交を保った。もっとも「山口組」と異名されるような彼の徒党の騒ぎ方からは、明確に距離を置いていた。

 氏は何ごとについてもトリッキーな派手派手しさを嫌った。テクストの細部にじっと留まり、ひとたびそれを解釈した後も繰り返し繰り返しそこに立ち戻り、拘泥を契機に新しい思考を認めるといった思索家だった。パリやニューヨークでの新見聞を声高に語るといった趣味とは無縁だった。その代わりにアルバニアからウズベクスタンまで、よほどの用事がないかぎり日本人が足を踏み入れることのない国々を無名の旅行者として訪問し、途上で体験した印象の細部を集めて、『旅に出て世界を考える』というユニークな紀行文集に纏めた。

 わたしは、宇波彰氏の姿を初めて見、言葉を交わした日のことを、今でもありありと憶えている。一九七八年秋の早稲田祭のときだった。

 宇波彰という名前はすでに親しいものだった。大学で宗教学を専攻し、せりか書房から刊行される翻訳書を片っ端から読破していった時期のわたしの前に、彼はまずジルベール・デュランの『象徴の想像力』の翻訳者として現われた。これは氏が一九七〇年に訳出した最初の翻訳書である。構造人類学と詩的映像の現象学、さらにユングの分析心理学を対立するものと見なさず、統合的に了解する手立てを示唆しており、小著でありながらも濃密な記述に、わたしは魅惑を感じていた。

 わたしの周辺では、宇波彰なる翻訳者がどのような人物で、いかなる大学または研究機関に所属している研究者なのかを知る人は皆無だった。この人物の顔を見たことのある人は誰もいなかった。公的な場所で講演をすることもなく、山口昌男や中村雄二郎のように、現代思想の雑誌に始終顔写真が掲載されていたわけでもない。デリダと宇波彰は顔を明らかにしないという、まことしやかな噂が、わたしたちの間では話題になっていた。

 その宇波彰が早稲田祭でいよいよ姿を現わし、バフチンについて講演をするという。わたしの心は躍った。とはいえ当日にキャンパスの雑踏を搔き分け、立て看板に教えられるままに講演会場に入ったものの、はたして誰が当の講演者なのかは、まったく見当がつかなかった。

 わたしは当時、バフチンを批判的に援用しつつスウィフトの『ガリヴァー旅行記』について修士論文を準備している大学院生であり、その一方で宇波氏が訳出刊行したばかりのドゥルーズ/ガタリのカフカ論を読み、そこで提唱されている「マイナー文学」という考えに強く惹かれていた。そこで氏のバフチン講演が終わったときに蛮勇を振るって手を挙げ、カーニヴァル文学とマイナー文学という二つの文学観の間に橋渡しをするにはどのような作業が必要なのかという質問をした。思い出しても冷や汗が出るが、粗暴にして無邪気な問いである。宇波氏は突然の質問に一瞬虚を突かれたような表情を見せたが、態勢を整えると、マイナー文学について丁寧にその意味を解き明かし、きわめて落ち着いた口調でバフチン理論との接続可能性を説明された。

 今にして思うとこの時のわたしたちは、後にトドロフが探究することになる文学概念のあり方を、両手を虚空に掲げながら模索していたのである。わたしは氏の応答のなかに、単に海外の最先端の理論を翻訳紹介するといった次元を超える、頑強な文学的確信が横たわっていることを直感した。わたしは思索する人としての宇波彰に出会ったのである。

 それから十数年の時間が流れ、わたしは明治学院大学が映画研究を含む芸術学科を立ち上げた時に、同僚としての宇波彰氏に再会した。あの時の早稲田祭での質問を憶えてますかと、わたしは尋ねた。ああ、憶えてますよ。うまく応えられたかは別として、自分が出したばかりの本を読んでよく勉強している学生さんというのは、やはりどこかにはいるもんだなあと思いましたよ。彼は飄々とした口調でそう答えた。

 宇波彰氏は誰に対しても、つまり教授、学生、講演の聴衆を問わず、自分に質問を投げかけてくる何人に向かっても親切に応え、自分の考えを披露した。書物を寄贈されると、丁寧な礼状を綴り、そこに自分の最近の書きものの複写を添えて送った。スーザン・ソンタグとは現代音楽をめぐって長い対話をし、意気投合したことがあってねと語られたことがあった。氏が亡くなったとき、書斎の机の上には、すでに切手を貼って差し出すはずの礼状が幾通も残されていたという。

 氏の突然の訃報を知らされたわたしは、一瞬だが自分の居場所がわからなくなるような失地感に見舞われた。だが数日後、この文章を書いているうちに、何となく自分の裡に奇妙に華やいだ気持ちが湧き上がってきつつあることを感じている。この華やぎは、後期高齢者と呼ばれる年齢に到っても平然と研究会を開催し、著述を公にし続けた氏のあり方に、知の探究者の理想的な姿を認めているところから来ている。

 氏は八六歳に到って、ふたたび飯能にある短期大学で、週に二日ずつ教壇に立たれた。驚くべきことだ。真冬でもけっしてコートを着用せず、五、六階くらいの建物であれば、エレヴェータを用いず歩いて上るというのが習慣で、もとより身体壮健ではあったが、もうこうなると超人としか呼びようがない。ヨモタもこれから悔い改めてコツコツと勉強を重ねていけば、ひょっとしたら宇波さんのように、後二〇年ほどの時間を現役の文筆家として送ることができるかもしれない。死は厳粛にして悲嘆に満ちたものであるが、氏の知的生涯を回顧して、最後まで微かにではあるが華やぎの気配が漂っていたことを、わたしは感じている。(よもた・いぬひこ=映画誌・比較文化研究家・批評家)

宇波彰氏(うなみ・あきら)=一九三三年、静岡県浜松市生まれ。哲学者・明治学院大学名誉教授。二〇二一年一月六日に亡くなった。八七歳だった。東京大学文学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(哲学専攻)。高校教諭を経て、一九九〇年に明治学院大学文学部教授、二〇〇一年に退官。札幌大学文化学部教授も務めた。著書に『ラカン的思考』『記号論の思想』『引用の想像力』『批評のパトロジー』『誘惑するオブジェ』『力としての現代思想』など、訳書にドゥルーズ『プルーストとシーニュ』、モラン『プロデメの変貌』、ボードリヤール『誘惑の戦略』、ベルクソン『精神のエネルギー』など。

〔写真は、四方田犬彦氏提供〕
≪週刊読書人2021年1月29日号掲載≫