てんでんこな〝オクラ〟建立
――書くことと生きることの関係を問い質す――

文芸〈2月〉 川口好美

松波太郎「カルチャーセンター」/鴻池留衣「スーパーラヴドゥーイット」

 先月のプロフィールにもあったとおり小商い(?)をはじめようと、山の上にたたずむ古い蔵をコツコツ修繕している。こんな私事を記したのは松波太郎「カルチャーセンター」(『早稲田文学』)を読んだ感動ゆえである……。〈お蔵入り〉。モノ書きを志す人間にとってこれほど怖ろしくも愛おしい言葉はないのではないか。自分で作品をお蔵にすることもあれば他人にされることもある。カフカやゴーゴリのようにどたん場ですべてをお蔵にしてしまおうとする極端な例もある。松波氏は途轍もないことにオクラへの情熱を丸ごと小説にした。作の中心には若くして自裁した西原康晃さん(氏がカルチャーセンターで共に創作を学んだ友人)が書いた文字どおりのお蔵入り小説「万華鏡」が横たえられており、死者と、かつての自分自身や仲間と対話しつつ氏は自らのお蔵を建てる。小説は学問の対象でも商品でもなく個人的な〝小さな説〟だ。人目から隠れていることに、なにより書くことに小説の本当の歓びがある――これがこのオクラ小説のオブセッション=建材である。実在する作家や編集者もやって来てお喋りする。たとえば藤田直哉氏(彼もセンターの仲間だったらしい)は批評家として生きることの哀しさと非倫理を嚙みしめながら「万華鏡」をもう一度殺す。末尾、呼応するように何ものかの声が響く。「一度消えたり、沈んでいったって、また何度でも現れてこられるのが〝小説〟ってことなんだよね?」

 鴻池留衣(彼も「万華鏡」にコメントを寄せている)の「スーパーラヴドゥーイット」(『すばる』)。どんなジャンルに分類すべきか知らないが、夢の話である。松波作に脈動するオブセッションとは一線を画すものの、書くこと(想像=創造すること)と生きることの関係を問い質す迫力に圧倒された。言葉が〈私〉を削り、突き破る。殺す。しかしでは、その言葉はどこから来るのか。〈私〉でなければ誰がそれを書くのか。書かせるのか。そんな物狂おしい問いに身を引き裂かれながらなお生きて書きつづける、書かされつづける、そういう気迫だ。その問いの根源にひっそりと建つ無数のオクラたちが触知される。

 以上二つが今月おすすめの小説である。先崎彰容氏が江藤淳論「家族と敗戦」(『新潮』)で「喪失感だけが、日本「と」私をつなげてくれる」と述べているが、「喪失感」以前の「喪失」の事実、それを見つめる経験が個々の人間を小説家にし、てんでんこなオクラ建立作業に向かわせる。それが大事なので、「小説の主題」における「公的関心」の有無や「日本「と」私」がどうであるかはほんのつけたりだ。二作を読んでそう思った。

 三国美千子「骨を撫でる」(『新潮』)。「どこが分かれ道でこんな風になってしまったんやろう」という主人公の疑問はさいごまで音楽として鳴っていない。そのために必要な空間が作家の精確な技量と細心で埋められている。行き届いた平等な描写で腑に落ちやすい結末まで運ばれては彼女が可哀そうである。

 児玉雨子「誰にも奪われたくない」(『文藝』)。アイドル・音楽業界の楽屋話に小説らしい饒舌を織り交ぜたチャーミングな作品。ただしヤマ場、常習的な万引きが露見したアイドル真子ちゃんと主人公の対話に引っかかった。主人公は彼女の告白を質問で遮ることを「最も暴力的な選択だ」として自分に禁じ、彼女の言うことをよく「理解」できないまま「受け入れ」る。読んだわたしも「理解」できなかったが「受け入れ」る心持になれなかった。「理解」への渇望は「暴力」的だが、それは書くこと・読むことの不可欠の条件でもある。それを現実の「暴力」と混同して避けて通ることは一層悪い「暴力」だと思う。作者自身真子ちゃんを底まで「理解」しようとしないまま曖昧に「受け入れ」たのではないか。大食いに取材した山下紘加「エラー」(『文藝』)にも同じようなことを感じた。巧みな描写・説明に終始するのなら「コントロールし得ない領域まで達した時の自分の最奥部」のような言い方は無しで済ませてもよいのではないか。それは小説を作品(商品)らしく装う思わせぶりではないのか。

『群像』では田中兆子「地球より重くない」上田岳弘「ボーイズ」が印象に残った。身近な誰かと生や死について遊ぶように語り合えること、そのための場所と時間を持てること。それが自由であり幸福である。両作はそんな当たり前だが大事なことを考えさせる。だが田中作末尾の引用文献一覧はどうしても必要なのか。感興がそがれた。

 異業種の人気者が参入して〝純文学〟の硬直をほぐしてくれるのはアリガタイことだ。とはいえ小暗いオクラの存在を忘れてしまっては元も子もない……。カストリ焼酎で酔ったわけでもないが愚痴っぽくなってきた。オクラ・ソングでも口ずさみながらそろそろわが卑小なお蔵に帰ろう。〈オクラらは今は罷らむ~♪〉(かわぐち・よしみ=文芸批評)
≪週刊読書人2021年2月5日号掲載≫