加速する世界の中で、本を読む

対談 山本貴光×吉川浩満

『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)刊行を機に

 山本貴光・吉川浩満著『人文的、あまりに人文的 古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α』(本の雑誌社)が刊行された。山本さんと吉川さんの対話形式で、新旧の人文書約四〇冊が紹介される。なぜ、本を読むのか。何を読むといいのか。〈読書〉という行為をめぐり、お二人にお話しいただいた。(編集部)
≪週刊読書人2021年2月26日号掲載≫


対談形式の効能と余白

 吉川 先日、本書の刊行記念として東京・府中のマルジナリア書店byよはく舎で、一日店長をさせていただきました。二人で店頭に立ったのですが、たくさんの方に足を運んでもらえて、とてもありがたかった。驚いたのは、私たちが配信しているYouTube番組「哲学の劇場」をご覧くださっている方が、予想以上に多かったことです。最近は「本読んでます」と言われるより「YouTube観てます」と言われることのほうが圧倒的に多い。今さらながらYouTubeの影響力を実感しました。

 本書に収録されているのは、そのYouTube配信の先駆けとなった電子雑誌「ゲンロンβ」での連載二〇回分の対談と、大学生時代の私たちの読書について話り合った「青春の読書篇」です。本書のタイトル『人文的、あまりに人文的』も連載からもってきました。

 この企画、実は当初は対談形式ではありませんでした。ゲンロンの担当編集さんから、「複数の本を取り上げる書評を連載してほしい」という依頼を私がいただいたのが発端です。書評というのは普通、一本につき一冊を対象にします。例外的に二冊並べることもありますが、最初から複数の本を前提にしているのは面白いと思い、快諾しました。その後、本が複数ならば、人間も複数にしたらどうか。そうしたら多角的な読み方が生まれ、面白いのではないか。そう思いついて山本くんに声をかけ、対談形式になりました。

 対談形式には、ばかにならない効能があります。山本くんが「はじめに」でいいことを言っているので、引用しますね。「緻密に構成された書き言葉による書評の魅力や効能とは別に、話し言葉には余白があって、対話する人同士の連想が働く余地もあったりする」。緻密な文章は読み応えがあっていいのですが、もっと遊びがほしい時と場合もある。余白のあるなしで文章の印象もだいぶ変わりますし。

 山本 余白があると、読者も第三の話者として対談に参加できます。突っ込みを入れたり、同意したり、アイデアを加えたりしながら読むことができるわけですね。本を間に置いた対話では、お互いの意見を持ち寄るための余白や遊びが生じやすくなります。独話のような文章と違って、自分だけで説明をきっちり組み立てる必要がないからです。これは説明のための喩えですが、本の内容を立体物のように思い浮かべるとして、対話ではその立体を自分で隅々まで完全に表現しなくてもよい。「この本は、私にはこんな形に見えた」と断片を提示する。すると、吉川くんが自分からはどう見えたかを提示する。それを聞いて、それは私が見たこの部分とつながってるね、と気づいたりする。こうして両者のあいだに或る立体物が浮かび上がり、対話が進むにつれて形も変わってゆくわけです。同じ本を読んでいても、私と吉川くんでは違う立体を想像していることもありますし、読者はわれわれの対談から、また違う立体を思い浮かべるかもしれない。本を読む面白さに通じるところがあります。

 吉川 「群盲象を評す」という寓話がありますね。目が見えない人たちが象を撫でると、足を触った人は柱と答え、尻尾を触った人は綱だと答える。象は巨大なので、撫でた部分によって想像するものが異なる。二人で本を評する場合にも同じことが起きます。これは本来、凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないという、ネガティブな意味で使われるたとえ話なのですが、本書で紹介しているような名著を前にすれば我々は凡人にならざるをえないわけで、それなら一人より二人で撫でた方がまだマシなんじゃないか、なんて思ったりもします。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます



★やまもと・たかみつ=ゲーム作家・文筆家。著書に『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』『記憶のデザイン』など。一九七一年生。

★よしかわ・ひろみつ=文筆家・編集者。著書に『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』など。一九七二年生。