曖昧な肯定と否定の境目

誰もが内側に抱える、内なるマイノリティ性を包み込む

 内なるマイノリティ性の発見。

 それは、朝井リョウが作家として十年間描いてきたテーマだった。

 単なるマイノリティを描いた物語ではない「他人からすればマジョリティに見える人々が、たしかに自分の内側にマイノリティ性を抱いている」様子を朝井リョウは描いてきた。外側には現れない、自分の内側にあるマイノリティ性に気づく物語。それが『桐島、部活やめるってよ』あるいは『何者』、あるいは『正欲』という小説である。

『正欲』は、とある児童ポルノ摘発の記事で始まる。物語は、三人の登場人物をそれぞれ描く。息子と妻との三人家族の父である寺井、布団売り場で働く夏月、大学の学園祭実行委員の八重子。三つの物語はまったく関係ないところで動いてゆくが、次第にとある秘密を共有する。そして小説は三つのパートを行き来しつつ、世間の言う「多様性」に疑問を提示してゆく。

 多様性、というキーワードが叫ばれるようになって久しい。ありのままでみんなが生きられる社会を目指しましょう、と皆言う。しかし不思議と、多様性が叫ばれる世の中になればなるほど、SNSで誰かを「叩く」こと――批判を目にする機会は増えた。もちろん真っ当な批判も多い。しかし誹謗中傷の域に入った言葉もまた多いのが事実だ。多様性を叫ぶ社会になるのと比例して、誰かを許せない言葉は増える。

 つまり、世間に許される自分らしさと、許されない自分らしさが存在するのだ。そして許されないラインを超えた瞬間、私たちは「間違った人」として批判を浴びる。小説『正欲』は、この許せる・許せないラインの狭間で、こぼれ落ちてしまう人々を描く。

 たとえば、検事である寺井の息子は、小学校へ行っていない。そして息子は、友達とyoutuberとして活動することを決めるのだ。が、寺井はどうしても息子を許せない。寺井は検事として、マジョリティとして生きることを放棄し苦労する人々を見てきた。できることならマジョリティとして、学校へ行って普通に生きておいたほうがいい。そう考える寺井にとって、息子の発言は全く理解できなかった。

 このあらすじだけ読むと、「息子への理解がないお父さんなんて、ひどい」と思うかもしれない。しかし一方、私たちは普段、小学校へ行かずyoutuberになると言う子どもをどんな目で見ているだろうか? 「この子、学校へ行かなくていいのかな」なんて一瞬でも思ったことがないなんて、胸を張って言えるだろうか? 私は言えない。言えなかった。ましてや自分の息子であればなおさらだ。つまり、大人が「youtuber」になるのはたしかにマイノリティだけどオッケー。成功している人もたくさんいるし。でも、「小学生が学校へ行かずにyoutuber」はなんとなくダメな気がする。そんなふうに私たちはジャッジしてしまうのではないか。

 私たちの肯定と否定の境目は、きわめて曖昧だ。一年も経てば変わってしまいそうな、無責任なものである。しかし私たちは勝手に批判する。「小学生でyoutuberなんて」と口を出す。なぜか、ほうっておけない。こうして世間に許せるラインと許せないラインが作られてしまう。

 朝井リョウの小説を読むと、いつも思う。自分の内側にマイノリティ性が存在しない人なんて、この世にいない。そのマイノリティ性とは、世間が許せると勝手にレッテルを張ったマイノリティ性などではない。もっと切実な、他人とは簡単に共有できない、人に見せられない秘密を、誰もが内側に抱えている。

 それは、世間はよしとしない感情かもしれない。人間としては汚い部分かもしれない。しかしそれを持っていない人など、ひとりもいないのだ。その秘密を小説というかたちで白日に晒すからこそ、朝井リョウの小説はたくさんの人に読まれる。『正欲』もそんな小説のひとつだろう。

 多様性という言葉をいくら使っても、その言葉を使う人間の想像力が限られたものであれば、結局それはきれいごとに過ぎない。しかし人間の想像力などたかが知れている。だからこそ、本当に必要なのは、人には必ずマイノリティな部分――人にはおいそれと公開できない内側の秘密が存在することを知ることではないだろうか。

 他人のことを分かるなんて傲慢だと、朝井リョウの小説はいつも語りかける。それは彼がいつも内なるマイノリティ性をそっと包み込む術を知っているからだろう。(みやけ・かほ=書評家)

★あさい・りょう
=作家。二〇〇九年、『桐島、部活やめるってよ』で第二十二回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。二〇一三年『何者』で第一四八回直木賞、二〇一四年『世界地図の下書き』で第二十九回坪田譲治文学賞を受賞。著書に『チア男子!!』『星やどりの声』『もういちど生まれる』『世にも奇妙な君物語』『風と共にゆとりぬ』『どうしても生きてる』『発注いただきました!』『スター』など。一九八九年生。