アルケミスト双書シリーズ
『闇の西洋絵画史』(創元社)刊行記念

山田五郎インタビュー


ダークサイドから、妖しくも美しい西洋絵画史を語る

 世界の謎と神秘を解き明かす「アルケミスト双書」より、山田五郎著『闇の西洋絵画史』シリーズが刊行開始となった。西洋美術の〈闇〉に注目した本シリーズは、第一期【黒の闇】篇と第二期【白の闇】篇(二〇二一年秋頃発売予定)に分かれ、全十冊の刊行が予定されている。【白の闇】篇に先立ち発売された【黒の闇】篇五冊について、山田氏にお話を伺った。(編集部)
≪週刊読書人2021年4月16日号掲載≫


光を輝かせるためのダークサイド
 ――山田さんはいつ頃から、美術に興味を持ったのでしょうか。

 山田 子どもの頃から、美術は好きでした。母方の親戚に、後に渡辺淳一先生の「失楽園」の挿絵を描く村松秀太郎という画家がいたり、父が版画を集めていたりして、美術が身近だったせいもあるでしょう。また、我々の世代の文化系男子に大きな影響を与えたメディアのひとつに、「週刊少年マガジン」で連載されていた「カラー大図解」シリーズがあります。担当していたのは大伴昌司という天才編集者。「あしたのジョー」や「巨人の星」が連載されていた時期で、何をやっても売れたせいか、かなり実験的な企画が多かった。そこで紹介されていたマグリットやエッシャー、そして同時期に表紙のデザインも担当されていた横尾忠則さんの作品に魅せられたのが、自分から美術に興味を持った最初かもしれません。

 ――「シリーズ「闇の西洋絵画史」(全十巻)刊行のきっかけをお聞かせください。

 山田 たとえば「最後の審判」を描いた絵画は、ミケランジェロの壁画をはじめ山ほどありますが、そこにはひとつの共通点があるんですよ。それは、地獄は画家それぞれに趣向を凝らして描き込んでいるのに対して、天国はどんな天才が描いても単に人々が天使と一緒にいるだけの退屈な描写にしかなっていないこと。考えてみれば当然ですよね。人にとって絵に描ける幸せや楽しみの大半は地上の快楽ですが、天国はそれに溺れなかった人だけが行ける場所ですから。それに対して地獄のバリエーションが豊富なのは、地上で体験する範囲をはるかに超えた苦痛や不幸を想像できるからにほかなりません。つまり、人の想像力というものは、本来がネガティブな方向に膨らんでいくようにできているのではないか。だとすれば芸術の本質も、むしろダークサイドにこそ潜んでいるのではないか。そんなふうに考えたのが、本シリーズ刊行のきっかけです。特に最近はコンプライアンスやらポリティカリー・コレクトネスやらで、ポジティブな作品ばかりがよしとされがちな風潮です。けれども「元気をくれる」健全な芸術作品しか許されない世の中は、逆に不健全で生気が失せたディストピアにしかなりません。光は、闇があるからこそ輝いて見えるのです。人の想像力がダークサイドに向かうようにできているのだとしたら、それは闇を濃くするためではなく、逆に光を輝かせるためではないでしょうか。本シリーズに掲載した作品の多くは、注文に応じて描かれた古典絵画です。単にネガティブな絵画なら、わざわざ注文しませんよね。「闇の西洋絵画」とは、闇を描くことで光を、死を描くことで生を輝かせる絵画なのです。これこそが本当の「元気をくれる」アートといえるでしょう。

 ――各巻のテーマはどのように決めたのでしょうか。

 山田 版元の創元社さんから第一期、第二期に分けたいというお話をいただき、ならば「黒の闇」と「白の闇」に分けてみてはどうかと思いついたんです。言葉として前者は重複、後者は矛盾していますが、闇が光を輝かせ光が闇を深めるというほどの意味とご理解ください。さらに各巻も対にしたいと考え、それぞれの第1巻を〈悪魔〉と〈天使〉にしたところから、漢字二文字で統一しようと欲が出て。絵画作品が揃いそうなテーマを探して〈怪物〉と〈聖獣〉、〈横死〉と〈殉教〉あたりまでは比較的すんなり決まりましたが、魔性の女と美少年をどうするかで悩み、思い切って〈魔性〉と〈美童〉に縮めました。いちばん難航したのが〈髑髏〉の対になるテーマ。打ち合わせ中に担当編集者がふと「髑髏も廃墟も抜け殻ですね」とおっしゃったのを機に、建築物でいこうとなって、最終的に〈楼閣〉に決まりました。


地獄でまじめに働く堕天使
『悪魔』


 ――一巻『悪魔』で驚いたのは、悪魔は意外とまじめに働いていることです。

 山田 悪魔は天使の対概念として善悪二元論でとらえられがちですが、キリスト教は一神教なので、悪魔もまた神の被造物でなければなりません。そこで生まれたのが、堕天使という概念。かつて有能な天使だったルシファーが、神に逆らった罰で地上に堕とされ、悪魔になったことにしたわけです。ルシファー一味が大天使ミカエルの軍団に討たれて地上に落ちた際にできた巨大クレーターが地獄になったという設定。その地獄でルシファーたち悪魔は罪人に罰を与え、ときには地上に出て人類を悪へと誘惑します。でも、それもまた神が与える試練と罰ですから、神の代行という業務自体は実は天使時代と変わっていません。つまり、キリスト教における悪魔は、神という社長に逆らって地上や地獄の支社に左遷され、汚れ仕事をやらされている堕天使なんですよ。彼らがまじめに働くのは、いつか天国の本社に戻れる日を夢見ているからでしょう。


男の身勝手な妄想/自然への畏怖と創造力
『魔性』『怪物』


 ――二巻『魔性』で最初に取り上げているのは、〈魔性の女(ファム・ファタル)〉として有名なサロメを描いた絵画です。また、後半では実在した魔性の女を紹介していますが、中でもエリザベス・シダルと、ジェーン・モリスの話が印象的でした。』

 山田 今では〈魔性の女〉の代名詞となっているサロメですが、聖書では母親のヘロディアに命じられて踊りの褒美に洗礼者ヨハネの首を求めた無名の共犯者にすぎません。つまり本当の悪女はヘロディアなんですよ。ところが一九世紀後半にフランス象徴主義の画家モローが、踊りの最中に宙に出現した生首と対峙する姿で描いたことで、サロメは自らの意志と美貌でヨハネに死をもたらす主犯にされてしまった。そしてその絵にインスパイアされたイギリスの詩人ワイルドの戯曲によって、かなわぬ恋心から男を殺して自分のものにする〈魔性の女〉としてのイメージを確立されてしまうのです。

 このように、〈魔性の女〉とは、男を滅ぼす加害者どころか、逆に男の身勝手な妄想の被害者である場合がほとんどです。エリザベス・シダルがその最たる例。一九世紀後半のイギリスで古典主義に反旗を翻したラファエル前派の画家たちが勝手にミューズにまつりあげ、おかげでひどい目に遭っています。J・E・ミレー「オフィーリア」のモデルとして水風呂に浸けられて肺炎になったり、夫のD・G・ロセッティの浮気に悩まされたり。その苦しみから阿片チンキを過剰摂取して、三十二歳の若さで世を去りました。それに対して、第二期ラファエル前派のミューズとなったジェーン・モリスは、珍しく自発的な〈魔性の女〉。労働者階級の出身ながら、裕福なモリスとの結婚を機に上流階級の作法を身につけてのし上がっていった彼女は、映画「マイ・フェア・レディ」の原作小説のモデルともいわれています。ジェーンに言い寄ったロセッティは、夫モリスとの二股暮らしをものともしない彼女に翻弄され、今度は自分が阿片チンキ中毒になって死期を早めました。一九世紀末の絵画や文学で〈魔性の女〉が好まれたのは、ジェーンのような強い女性が登場し、男たちが危機感を募らせたせいかもしれませんね。

 ――三巻『怪物』では、キリスト教やギリシャ神話、画家が幻視した怪物の絵画が紹介されています。山田さんは怪物をどのように考えているのでしょうか。』

 山田 怪物とは、自然に対する人間の恐れや感謝や親しみが、現実には存在しない生き物の形で表されたもの。自然を崇拝するアニミズムにおける神々と、ほぼ同じ存在だと思っています。ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲル一世が描く怪物が、単にグロテスクで怖いだけでなく、どこかユーモラスでかわいいのも、恐怖と親しみが入り交じった存在だからではないでしょうか。水木しげる先生が描いた妖怪も同じですよね。そのような、自然崇拝から生まれた怖くてかわいい怪物は、洋の東西を問わずほぼ全ての伝統社会に存在しています。ところが、一神教的な宗教が入ってくると、怪物たちもそこに吸収されてしまうんですよ。仏教もインドや中国や日本の自然崇拝的な多神教の神々を、仏が姿を変えたものとしてどんどん習合させていきましたよね。だから怪物のような異形の仏像がたくさんあります。一方、キリスト教は怪物を悪魔の仲間に組み込み、地上の誘惑と地獄の責め苦を担当させました。だから聖人の誘惑や最後の審判といった画題には、しばしば怪物が登場します。洋の東西を問わず、怪物は画家や彫刻家にとって、想像力を存分に発揮できる魅力的なテーマだったのではないでしょうか。ヨーロッパの場合、特にアルプス以北のゲルマン諸国において、この傾向が顕著です。今日でも怪物趣味を〈ゴシック〉、略して〈ゴス〉と呼ぶことがありますが、これは〈ゴート(ゲルマン)風〉という意味。自然崇拝はゲルマン民族の伝統なのです。北方の画家たちは、その伝統にのっとりながら、常に新たな怪物を創造してきました。ブリューゲル一世の「反逆天使の墜落」には、当時、アメリカ大陸から持ち込まれたばかりのアルマジロをモチーフとした怪物が描かれています。未知の生物に接した驚きが自然への畏怖と感嘆となり、怪物という形で表現された好例といえるでしょう。


生を充実させる死/十人十色の解釈
『髑髏』『横死』


 ――四巻『髑髏』は前の三冊に比べ、不思議な静けさを感じる絵画が多い印象があります。

 山田 髑髏は動かない静物ですからね。でも、一四世紀半ばの黒死病の流行とともに生まれたとされる「死の勝利」や「死の舞踏」といった画題の作品では、骸骨たちが賑やかに踊り歩いていますよ。今の感覚では理解しにくいかもしれませんが、これは死を讃えているわけでも、やけくそで描いているわけでもありません。その証拠に、「死の舞踏」はしばしば職業図鑑の体裁をとっています。死は階級や職業を問わず、あらゆる人に平等に訪れることを示すためです。格差社会で苦しむ人々にとって、死の平等さはせめてもの慰めになったことでしょう。時の経過を象徴する時計やしおれた花とともに髑髏を描く静物画は、「メメント・モリ」と呼ばれる伝統的な画題。「死を忘れるな」という意味のラテン語で、仏教でいえば諸行無常・盛者必衰の教えを説く教訓画です。これも今日の感覚では単にネガティブにとらえがちですが、そうではありません。「メメント・モリ」は、「カルペ・ディエム(今日の花を摘め)」という言葉と表裏一体。人はいつか死ぬのだから、今日を精一杯生きようという、ポジティブな励ましでもあるのです。今日の私たちは、死を日常から遠ざけようとするあまり、逆に生の意味を見失いがちです。生を充実させるためにあえて死を描いた「死の舞踏」や「メメント・モリ」は、光をより輝かせるためにあえてダークサイドを描く「闇の西洋絵画」の典型といえるでしょう。

 ――「黒の闇」篇最終巻の五巻は『横死』です。特に「哲学者の死」の紹介が面白かったのですが、西洋絵画特有の生々しさも感じられます。

 山田 哲学者の死というとソクラテスやセネカが有名ですが、小カトーも見逃せません。カエサルに反旗を翻して自死に追い込まれ、西洋では珍しい切腹をした哲人政治家です。しかも、医者が傷口を縫合しても自分の手で再び開き、内臓を引きずり出したという壮絶さ。ハラキリは日本人の専売特許ではなかったのですね。ただし、描き方はずいぶん違い、西洋画は日本画と比べて、よりリアルで生々しい。この差は、陰影法や遠近法といった技法上の違いだけではなく、身体に対する感覚の違いからくるような気がします。仏教では死ねば肉体は消滅しますが、キリスト教では最後の審判の日に復活します。つまり死体になってもその人のままだから、生々しく感じるのではないでしょうか。

 ――最後に、全巻を通してひと言お願いします。

 山田 絵画は現物を見なければ見たことにはなりません。色彩も質感も大きさも、画集では正確に伝えきれないからです。本シリーズで気になった作品があれば、コロナ禍が終息した暁に、ぜひ世界中の美術館に足を運んで現物をご覧になっていただきたい。その際に少しでも参考になればと願いつつ、解説文を書きました。あくまで私個人の見方や考え方にすぎませんから、「それは違う」、「自分はこう思う」と突っ込みながらお読みください。絵の解釈は、十人十色。正解はひとつではありません。それぞれの「見に行きたい作品」を発見し、ご自身の解釈で楽しむきっかけとして、本シリーズをご利用いただければ幸いです。(おわり)

★やまだ・ごろう=編集者・評論家。東京国立博物館評議員。AHS(英国古時計協会)会員。上智大学を卒業後、講談社に入社。『Hot-Dog PRESS』編集長、総合編纂局担当部長等を経てフリーに。現在は時計、西洋美術、街づくりなど幅広い分野で講演、執筆活動を続けている。テレビ・ラジオの出演も多い。著書に『知識ゼロからの西洋絵画入門』『知識ゼロからの西洋絵画 困った巨匠対決』『知識ゼロからの近代絵画入門』『へんな西洋絵画』など。一九五八年生。