地域に根を張り、時代と向き合う

内山節インタビュー

『内山節と語る 未来社会のデザイン』(農文協)刊行を機に

 農山漁村文化協会(農文協)から、哲学者の内山節氏の『内山節と語る 未来社会のデザイン』(全三巻、①民主主義を問いなおす、②資本主義を乗りこえる、③新しい共同体の思想とは)が刊行された。内山氏が講師を務める「東北農家の2月セミナー」という勉強会の、二〇一七年から二〇一九年までの記録であり、内山氏の幅広い思索のエッセンスがやさしく語られている。刊行を機に、近年刊行された著書と、東京と群馬県上野村を行き来する内山氏の暮らしについて合わせてお話をうかがった。(編集部)
≪週刊読書人2021年5月14日号掲載≫


上野村との出会い それぞれの便利さ


 ――内山さんは東北の農家の方々との勉強会を長く続けてこられています。内山さんの講義の後には、どのような討論がなされるのでしょうか。

 内山 この前身の勉強会を含めると三五年になります。ずいぶん長く続けてきましたね。話した内容について質問を受けるというよりも、農家の方々の間で、自分たちの農業や村がいまどうなっているかについて議論が交わされることが多いです。付き合いが続いている参加者の皆さんが一年ぶりに集まってきますので、近況報告も兼ねているんです。

 ――自然と地域のなかで関係を作り、豊かに生きていく。内山さんは二〇代のころから、そういう生き方の方向性に目を向けられ、活動されています。どのようなきっかけや着想があったのでしょうか。

 内山 私の場合は上野村との出会いが大きいですね。たまたま通りかかった神流川の美しさに惹きつけられました。東京と行ったり来たりですが、村に通うようになってもう五〇年になります。村に家もあります。すぐ近くの山や川とともに、上手に地域を作り、ちゃんと暮らしを営んでいる人たちがいる。上野村で暮らしたり、いろいろな話をしたりするなかで、村の人たちに教わってきたことがたくさんあります。そういう世界になじんできたんですね。

 哲学や文化の歴史でいうと、一九世紀にはヨーロッパでロマン主義系の流れが出てきます。ロマン主義にもいくつかの傾向がありますが、共通するのは近代の合理主義に対する反動です。中世から近代に移行する過程では大きな希望があり、一九世紀に入ると近代社会が実現していきますが、いざ実現してみると、私たちが望んだのはこんな社会だったのかという疑問や挫折感も生まれてくる。

 個人と貨幣が中心の社会になって、一人ひとりが自分の利益のために動き、他の人のために手助けする気持ちも持てない。自由や民主主義といっても、本当の自由や本当の民主主義はどこにもない。そのように感じた人たちがロマン主義の潮流を作るのですが、その中心になっていくのは自然回帰派です。文明を捨てて、自然に帰り、原点に戻って考えよう、と。たとえばワーズワースやハイネの詩、ベートーヴェンの「田園」交響曲や「月光」、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」のように、近代に挫折感や反感をもった作家や詩人、画家や音楽家たちが自然の世界を志向する作品を作り出します。つまり近代の形成はそういう人たちを生んだということです。また、一九世紀にヨーロッパで、西洋の思想に根本的な間違いはなかったかという疑問から、仏教を研究する動き、自然に何かを探そうとする動きも出てきます。日本の場合には、そういう傾向はあまりなかったと思います。西洋から学んで西洋の仕組みを取り入れなければいけないという時代が長かったですから。

 ――東京と上野村を行き来することで、それぞれの特徴がよりよく見えてくるのでしょうか。

 内山 そうですね。東京という場所は便利さの極致なわけです。いろいろな地域に出かけることも多いのですが、電車で東京駅にすぐ行けるメリットは大きいです。村では自動車が必要ですし、新幹線や飛行機に乗るまでにもひと苦労です。一方で、東京的な便利さとは違いますが、実は村もすごく便利なところです。いまの季節は山菜がたくさん採れるので、近くの山を少し散歩すれば、野菜の食材に困りません。夕方に近所のお家に行くと、ごはんを食べさせてくれます(笑)。そういう地域の便利さも大きい。便利さの中身がまったく違うんですね。

 当たり前ですが、東京という都市で生活するにはお金が要ります。東京でも関係ができあがってくると、無償で特別にサービスしてくれることがありますが、それは例外的です。商品経済的な便利さが都市にあり、非商品経済的な便利さが村にあります。

 上野村にある私の家の庭のすぐそばに山が広がっています。家の近くの山の木が大きくなりすぎると、災害が起きて家の方に倒れてくるのが危険なので、伐採するんです。自分一人ではできないので、林業をやっている仲間と協力して、チェーンソーやチルホールを使って伐ります。もちろん料金を支払いますが、山の斜面に倒れた木を薪用に分割して運ぶ作業は、手が空いたときに仲間がやってくれたりします。つまりボランティアでやっている部分と、仕事としてやっている部分とがあいまいで、重なり合っている。これが村の暮らしなんです。


集落ごとの風土や習慣 具体的課題、関係と場


 ――今回の本でも触れられていますが、「仕事」「趣味」「ボランティア」「家族サービス」「遊び」というように、生きる営みがバラバラに分解されていないのですね。

 内山 そうです。そういう暮らしになじんでくると、市場経済とは違う経済で、いまでも残っている村の暮らしとともにある経済というものがわかってきます。もともと経済活動は独立した営みではなく、自分たちの生活や地域のなかに埋め込まれている。その意味で、カール・ポランニーのような経済学が参考になると思います。

 風土や地域がよくわかっている人たちが上野村に住んでいて、村はひとつの共同体のような雰囲気ですね。上野村のなかでも集落ごとに風土や慣習が微妙に違っていますが、そういうものを大事にしています。地域というのは行政のことではなく、そこにはいくつもの集落が共存している。上野村で私の住む集落は全員が親戚のような世界で、その外側に、村という地域がある。私にとって集落は親戚、上野村は仲間という感覚です。さらにその外側に、関係を結んでいるいろいろな地域がある。いま上野村でもっとも収益を上げているのは、きのこの生産です。コナラやミズナラをオガクズにして菌床をつくり、しいたけをたくさん栽培していて、その売り上げは四億円ぐらいになります。人口一二〇〇人の村にとっては一大産業で、いろいろな外部の人が関わっていて、大規模な生産施設もあります。大株主は村や農協ですが、民間企業が運営しています。経済や経営に詳しい友人がいつのまにかその企業の取締役になっていました(笑)。広葉樹材で木工製品もつくっている人もいます。村の生産力といっても、大半は自然の生産力ですから、それを上手に使うことが、持続性のある村にしていくために大切だと思います。

 ――「村があるからこそ関係が成立していて、そういう関係が成立しているからこそ村が成立している」と述べられています。都市部では、「場を作りながら関係を結び、関係を結びながら場をつくる」ことが必要だと。

 内山 いまは社会が二つに大きく分かれてきていると思います。そういうことに関心を持たない人も当然ながらたくさんいます。ただ、自分たちで場をつくっていこうとするときには、何か課題があるはずです。たとえば郊外の団地は高度成長期に作られていて、そこに住む人たちが高齢化しています。買い物にもいけず家にこもっている高齢者の人たちが集まれるような場所もあるし、ひきこもりの若い人が悩みを相談できるような場所もあります。さらに高齢者の認知症が問題になっています。そういう人たちにとって、ある場所に行くということは刺激になるので、認知症の進行がゆるやかになるといいます。そこには認知症でない人たちも関わる必要があります。

 課題は実にさまざまで、自分たちが持っている具体的な課題を解決するために、どういう関係を作っていけばいいか、それを作るためにどういう場所が必要かということを考えて、行動している人が出てきていると思います。いろんな地域で実践をしている人たちがたくさんいますし、価値観を共有する仲間たちがたくさんいるんです。


普遍とローカルなもの 『資本論』を読み解く


 ――「普遍」や規模の拡大を求めると、実体のない虚構の経済や経営になってしまうと述べられています。この点についてもう少し詳しくお聞かせください。

 内山 世界で普遍的に通用するものはお金ですよね。結局、お金が支配する経済が、もっとも普遍的な経済の形であるという言い方ができてしまう。実際に世界中にお金が飛び交っていて、その大半は投資によるものです。それが世界経済を動かしています。

 言語でもそうで、いまもっとも普遍的な言語は英語です。英語に翻訳できない日本語がたくさんあります。日本的風土のなかで育まれてきた言語は、他の言語に翻訳するのが難しい。逆に、日本語にするのが難しい外国語もある。もし世界中の人たちが全員、英語を身につけて話すようになれば、便利にはなるかもしれませんが、ローカルな文化は崩壊していくでしょう。つまり普遍は、その風土に根ざした深いものを破壊することによって成立しているわけです。

 世界でいま、どれくらいの通貨が流通しているのかもわからなくなっていますし、大企業であればあるほど強いというわけではなくなっています。虚構の経済に振り回されることなく、地域に根を張って、確かな技術を受け継いでいる中小企業の方が強いと言えるのではないでしょうか。地域の人たちが喜んでくれるものを作り、「ここに自分たちの生きる世界がある」と感じたいという人たちが増えています。 

 ――一昨年に刊行された『内山節と読む 世界と日本の古典50冊』(農文協)では、政治、経済、哲学、宗教、自然科学、文学の幅広い古典のうち、カール・マルクスの著作が四度も取り上げられています。

 内山 資本主義がどのような原理によって展開する経済システムなのか、いまの世界がどういう構造で成り立っているのかをとらえていくときに、マルクスの『資本論』がもっとも参考になる文献であることは確かだと思います。マルクス経済学の研究では、宇野弘蔵という大家がいました。マルクス経済学が経済学の主流だった時代に、宇野学派とよばれる宇野の弟子筋が多くいて、大きな力をもっていました。マルクス経済学にはある種の党派性があり、イデオロギーを全面に出す人もいるのですが、宇野はそういうタイプではなく、『資本論』を正確に読み解いて研究した人です。

 宇野は、『資本論』をいくら読んでも革命の必然性は出てこないと述べています。むしろ資本が永遠に拡大再生産を繰り返していく論理構造になっている、と。まったくその通りで、『資本論』には、資本主義がどのような構造で成り立っているかを科学的に分析する部分と、資本主義を打倒したいというマルクスの思いを書いている部分があり、その思いが論理に反映されていません。宇野自身は、結局それは実践の問題であり、経済学という科学が扱う問題と区別していました。

 けれども、資本主義はいずれ崩壊していくということを、論理的に解明する資本主義論でなければ、不十分ではないかと思います。マルクスの『資本論』は商品の分析から始まっていて、商品の展開過程では労働が労働力商品として扱われます。だからそこには人間が入ってきません。商品の展開とは別の論理で、資本主義を分析できないかと考え、人間の労働過程について研究することから始めたんですね。

 私にとってマルクスは、社会の構造について考えるうえで実に参考になるとともに、この方法ではうまくいかないということを教えてくれる人でもあります。


社会の変革期と人間精神 時代のなかで古典を読む


 内山 最近はあまり行っていませんが、日本との比較のためにフランスを調べてきました。一九七〇年代半ばに、オイルショックが起きて世界的な不況になります。日本では高度成長が低成長に移ったくらいで、それほど影響はありませんでした。フランスではそのころから不況が進み、一九八〇年代には失業率が8%、ときに10%を超えます。終身雇用制は日本にも欧米にもなく、企業が慣行としてそうしているだけで、定年制があっても定年まで必ず雇いつづけなければならないという法律はありません。ただ、恣意的な解雇ができない点は共通しています。欧米には勤続年数が長い人が優遇される先任権制度があり、勤続年数が短い人、若い人の方が解雇されやすい。ですから、欧米の方が終身雇用的と言えます。

 失業率が増えると、強盗でもしないと生き延びる方法がない人が出てきます。失業保険の給付期間を延ばしたり、その伸ばした分については支給額を少し減らしたりして、とにかく失業者が最低限度の生活をできるように、いろいろな制度を柔軟に変えざるをえません。そこに予算を回すとなると、ほかの部分では削らなければなりません。

 そういう大変な状況のなかで、社会はどういうふうに変わっていくか。以前の社会科学では、社会に矛盾が深まってくると人々の不満や批判も高まってくるから、それを契機に社会変革の動きが出てくると説明されていました。しかし、歴史を振り返れば、矛盾が深まっても変革が起きていない場合もあり、その前後の数十年で、それほど状況が悪くないときに大きな変革運動が始まる場合もあります。あとから分析すれば、矛盾が深まったから社会変革が起きたという考え方ができますが、その時代のなかから出てくる発想ではないように思います。

 ではなぜ人々は、ときに大きな社会変革運動を起こしてきたのかというと、いままでの生き方や社会のあり方に飽きるという要因も大きいと思います。飽きるということは、人間の精神にとって決定的な問題です。いまの仕事のやり方にも、生活の仕方にも、あるいはこの社会のあり方にもどことなく飽きてきている。そういうときは変革期でもあります。これからどのように自分の生活や社会を作り直していけばいいかを探している人が増えているからこそ、関係づくりや場づくりのいろいろな動きが出てきていると思います。

 ――古典といわれる本を読むときには、「どういう時代背景のなかで、何を重視しながら読まれたのか」が重要だとも述べられています。

 内山 私が一〇代、二〇代のころは、社会主義思想が全盛の時代です。マルクスの本も、全部は読んでいなくても読んだふりくらいはしておかないと、どこか肩身が狭いような雰囲気でした。いまの時代にマルクスを読むとしたら、その読み方が変わって当然です。いまの若い人はマルクスをこんなふうに読むのかと思うことがありますし、たえずそういう驚きを期待しています。

 本というのは、どういうふうに読んでも、その人の読み方しかできないと思います。自分が読んだ本を他の人が解説していると、自分が関心を持っていなかった部分に言及されていて驚くことがあります。その部分を重要だと思って読んでいる人もいる。つまり同じ本でも、それだけ読み方が違うということです。その点では絵画を見ているのと同じです。ゴッホもモナリザも、こう見なければいけないというルールはなく、人によっても時代によってもその見方は変わります。

 それに古典的な文章は、ある程度の分量を読まないと言葉が入ってきません。私もはじめてマルクスを読んだとき、言葉を追いかけるだけで精一杯でしたし、あまりよくわかりませんでした。その本が書かれた当時の時代背景も、翻訳の難しさも絡んでいます。言葉で苦労しなくなってくると、自分流の読み方が出てきます。自分流の読み方といっても、やはり時代の影響を受けているはずです。いま生きている時代の状況と向き合いながら古典を読んでみることが大事ではないかと思います。(おわり)
≪週刊読書人2021年5月14日号掲載≫

★うちやま・たかし=哲学者。一九五〇年、東京生まれ。NPO法人「森づくりフォーラム」代表理事、『かがり火』編集人。著書に『内山節著作集』(全15巻)、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』『いのちの場所』、共著に『修験道という生き方』など。