経済危機、人びとの思惑と行動

対談=田中秀臣×森永康平

『金融危機の行動経済学』(日本経済新聞出版社)刊行を機に

 2008年9月に発生したリーマンショックは21世紀に入って初めての世界的経済ショックであり、金融市場だけでなく実体経済にも大きな影響を及ぼした。ショックが起きた原因となったサブプライムローンをはじめとする高リスクの金融商品が当時なぜ人気を博していたのか。売買を行う市場関係者たちは商品のリスクをどう捉えていたのか。

 大規模経済危機の前、投資家や金融当局が何を考え行動していたか、先年ノーベル経済学賞をとって日本でも話題になった行動経済学の理論を用いて解き明かすことを試みたニコラ・ジェンナイオーリ/アンドレイ・シュライファー著(貫井佳子訳)『金融危機の行動経済学 投資家心理と金融の脆弱性』(日本経済新聞出版)が刊行された。

 本書刊行を機に経済学者で上武大学教授の田中秀臣氏、経済アナリストの森永康平氏に本書をめぐってそれぞれの立場から経済学的視点、金融市場的視点で語っていただき、リーマンショックの振り返りをはじめ、現在のコロナ禍経済を考える上での議論をしてもらった。読書人WEB限定・人気対談の第3弾!(編集部)


※本対談は前半部を「読書人WEB」で無料公開し、後半部は有料記事として読書人オンライショップでお買い求めいただけます。


リーマンショック回想


 森永 リーマンショックは2008年の9月に起きましたが、僕が社会人になったのがその前年でちょうど運用会社でアナリストをしていたんですよ。ですから本書は当時のことを振り返りつつ読むことができたのですが、実は2007年時点でアメリカの住宅市場がヤバいという話は耳にしていて。当時所属していた社長兼ファンドマネージャーの人からABCP、資産担保型のコマーシャル・ペーパーの推移を確認しておけ、と新入社員の僕に指示があったくらいですから。本来リーマンショックとは無関係の日本の運用会社にですら流動性の枯渇とか、信用収縮が起きる可能性がありえることは認識されていた、というわけです。アジアの一島国の一介のファンドマネージャーですらリスクの存在に気づいていたので、当然ショックの震源地である欧米の市場関係者たちが気づいていないわけがない。ヤバいというのはなんとなくわかっていながらも、だからといって何をするでもなく、やがてリーマンショックが起きて世界中の経済が大混乱に陥りました。

 当時のFRBの対応を見ても過去の金融危機と同程度だろうという認識で、とりあえず流動性の枯渇に対処することだけをして様子うかがいをしていたのですが、破綻直前にまで追いこまれていたリーマン・ブラザーズをそのまま放置した場合に何が生じるか、そこまでは思い至らなかった。そしてリーマン・ブラザーズが破綻した結果いろいろまずいことが起きることがあとで分かり、同様の危機に瀕していたほかの主要金融機関、たとえばメリルリンチなんかはバンク・オブ・アメリカに買収させることによって難を逃れようとしました。ただ市場からすれば一方を潰してもう一方は救済するというよくわからないダブルスタンダード的な施策だったので、より混乱に拍車がかかった、というのが大まかな時系列ですね。

 ちなみに本書中に当時の金融業界のことをよく表している一節があります。

 保険メカニズムが普及すると、そのリスク低減効果がかえって安全性に対する過信を招く。(本書157頁)

 これはどういうことかというと、当時は住宅ローンを借り入れすることが本来できないはずのホームレスの人たちでも組めるようにして数千万円の家を持つ人たちがたくさん生まれました。僕の親父(経済アナリスト・森永卓郎氏)がこの時期アメリカの取材をしていて、その話をよく聞いたのですが、なぜそれができるようになったかというと、金融工学が発達したことにより、いろいろな住宅ローンをごちゃまぜにして証券化することが可能になり、さらにその証券に対する保険商品、あるいはその保険商品がデフォルトした際にヘッジする金融商品などが生みだされる、そんなことを欧米の金融業界では盛んにやっていたのです。何もわからないホームレスに申し込みフォームを書かせて住宅ローンを組ませる、金融工学が未発達な時代ならこんな住宅ローンはすぐに焦げつくことが明白なので商品にはなり得なかったのですが、技術発展の結果、こんなクズみたいな金融商品がトリプルA格、アメリカ国債と同等のレーティングで販売されるに至ったのです。米国債と同じレベルだったら破綻するわけがないし、もし仮に破綻しても保険があるから大丈夫と、投資家側も金融当局も錯覚し、最終的にどのような結末を迎えるか理解できなくなっていたのでしょう。それほどに販売される金融商品が複雑になりすぎてしまっていたわけです。

 田中 ホームレスでも住居が持てる、このエピソードは僕もよく覚えています。これはまさしく金融工学の革新、イノベーションを象徴する出来事でした。イノベーションに対して経済学者や経営学者は割と好意的に見る傾向があって、それはヨーゼフ・シュンペーターが唱えた、資本主義のエンジンはイノベーションである、という経済理論が広く共有されているからです。しかし、リーマンショックの引き金がまさにこのイノベーションであって、人びとが楽観的、つまり誤った認識を系統的に抱いた結果として生じたものだった。だからリーマンショックを引き起こした金融イノベーションは資本主義に対する強烈な皮肉がこめられていて、資本主義は誤解や誤認をもとにして発展する可能性がありますよ、と言っているのに等しいのです。イノベーションの土台は系統的なバイアスによって成立しているものだからいつか瓦解する可能性があり、危うさと表裏一体なんだ、というようなことが読み取れる本書の面白い論点ですね。

 森永 そもそもなんでホームレスに貸している住宅ローンがトリプルA格で出回っているのか当時はよくわかりませんでしたね。イノベーションによってそういうことができるようになった、という事実だけを見ればすごいことですが、結果的に複雑化した構造をきちんと理解できる人がいなかった、という点がこの問題におけるエアポケットだったわけで。

 あと、本書では危機的な事象をシーム・ニコラス・タレブが使った「ブラックスワン」という言葉を引用していますが、これはロングテールリスク、つまり統計学的には無視してもいいようなレベルの事象を指します。このブラックスワン的な事象をどう扱うか、僕はよく飛行機事故を例に説明するのですが、飛行機の墜落確率はものすごく低くて、計算上は宝くじで1等が当たるよりも低いんですよ。ただ、飛行機に乗っている人からすれば落ちるか落ちないかの二択のうちの落ちる目が出た、という事象であって。統計学的な数値上、その事象がブラックスワンだからといって全くケアをしなくていいわけではなく、起きる・起きないの二択でいえば発生確率は五分五分なので、やはり起きたときのことはきちんと予測して対抗策を準備しておく必要があるでしょう、と。この予測の見立てがリーマンショック時においてはあまりにも甘すぎた、ということが本書の主旨ですね。


行動経済学のロジック


 田中 本書はニコラ・ジェンナイオーリとアンドレイ・シュライファーというふたりの経済学者が書いています。ジェンナイオーリはイタリアのボッコーニ大学の先生だそうですね。ボッコーニ大学には市場メカニズムを中心にしたボッコーニ学派というグループがあって、どちらかというと緊縮的な経済学者が集っているのですが、おそらくジェンナイオーリもその流れを汲んだひとりではないかと思います。もうひとりの著者のシュライファーは僕が以前参加していた「猪瀬直樹メールマガジン」で彼の業績を参照したことがあったのでよく知っているのですが、彼の代表的な著書に市場の失敗に伴う政府の失敗を問題視した『The Grabbing Hand』という面白い本があったのを記憶しています。彼は規制緩和や民営化などで主に合理的な経済主体を中心に考えていた印象があるのですが、徐々に非合理的な投資活動を行う株式取引の世界のことを書くようになり、行動ファイナンス的な著作でも知られています。本書もその流れの1冊なのかな、と思いましたけれども。行動ファイナンスについては森永さんのほうが僕より上手く説明してくれるでしょう(笑)。

 森永 いやいや(笑)。実は学部生時代に行動経済学のエッセンスを取り入れた卒論を書いたのですが、その頃の自分が理解した範囲で行動ファイナンスまたは行動経済学についてお話すると、そもそも市場参加者が本当に賢くて、情報がすべて透明化されていたら株価は固定されますよね。それはフェア・バリューと呼ばれる適正価格の状態を示していて、例えばトヨタ株の適正価格が5000円だ、とみんなが同じ情報を共有していたら5000円以外に動きようがないわけで。でも実際のマーケットでは株価は日々上がったり下がったりを繰り返している。なぜそうなるかというと、市場参加者がある会社の株式の売買を行うなかで、将来確実に儲かると思って買いに動く人や、あるいは何かしらのリスクで下落する可能性を織り込んで空売りする人など、売り手・買い手にもいろいろな考え方の人がいるので、現実の市場は効率化、透明化されていないと考えられます。そのように常に変動する株価を形成する人びとのランダムで、ある意味非合理的な行動は従来の経済学の考え方では上手く説明できなかった。なので、このようにすごく複雑な現実を単純化して人びとの行動を一般化して学問的に説明しよう、行動経済学とはそういった発想から生まれた新しい経済学で、それを使って市場の動きを観察するのが行動ファイナンスである、というのが学部生レベルでの大まかな理解で、ちょうど僕が大学に入学してから卒業するまでの2003年から2007年くらいの時期は流行っていた記憶があります。

 田中 従来、市場を考える上では効率市場仮説という基本的な理論を使っていたのですが、これは何かというと市場での取引をひとつのゲームのようなものだと考えています。まさに野球やサッカーと同じような見方をするのですが、ここでは野球を例にとって説明してみようと思います。

 野球というスポーツは常に攻守が別れて、スリーアウトチェンジで攻守交代、攻撃時はヒットで進塁、ホームランで1点追加など、ゲームを進めるためのルールがあらかじめ決められていて、そのルールを理解している人たちがゲームに参加します。ゲーム進行中、一塁に走者がいて盗塁をするかどうかを予測する場面がありますよね。走者の身振りなどを観察すれば今までの経験に基づいた判断の要素も加わってある程度確率を割り出すことができますね。ただ、より根本的な部分では塁を飛び越して一気にホームに行って得点することはできないというルールを理解しているからこそ次のプレー予測ができるようになるのです。つまりゲーム中にルール外のことをやって点数を稼ぐことはできない、この状態が効率市場仮説。投資家は誰も市場というルールを超えることができないとも言えます。つまり株式市場に置き換えると予想外の手を使っても儲けることができませんよ、となるわけですね。

 行動経済学ではこの効率市場仮説を批判的に捉えています。今の野球の例を使ってもう一度解説すると、一塁走者は野球選手ではなく実は今から短距離走をやる陸上選手でした、野球のユニフォームを着ているから野球選手だという認識はあなたの思い込みだよ、と考えるのです。このたとえ話と似た話は本書中にもあって、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーの「代表性ヒューリスティック」の次の事例を紹介しています。

 リンダは31歳の独身女性。率直な性格で、非常に聡明である。大学の専攻は哲学だった。学生時代は差別や社会正義の問題に強い関心をもち、反核デモにも参加していた。

 被験者には、リンダの現在の職業として提示された複数の選択肢を確からしさで順位づけすることが求められた。選択肢には「リンダはソーシャルワーカーである」「リンダは学校教師である」といったもののほかに、以下の二つが含まれていた。

 ①リンダは銀行窓口係である。
 ②リンダは銀行窓口係で、フェミニスト活動も行っている。


このふたつの選択肢を与えると多くの人は①よりも②のほうが確からしい、と選びます。でもそれはあくまで思い込みだというのです。

 選択肢①にはフェミニストの銀行窓口係とフェミニストではない銀行窓口係の両方が含まれるからだ。標準的な確率の考え方を用いれば選択肢①の中には選択肢②が含まれるのであり、したがって選択肢①の確率は最低でも選択肢②と同等でなければならない。(本書141~142頁)

 明らかなバイアスによって認識を誤る一例ですね。これが本書での一番わかりやすい解説です。

 もう一度僕のたとえ話に戻ると、これから出走する陸上選手は野球ユニフォームを着るわけがないし、まして一塁からスタートするわけない、という思い込みが働くわけです。先に与えられた情報の目立つ部分に人びとは惹かれてしまう。リンダさんの場合は経歴に、陸上選手は身なりに注目してしまう。それが実際に同じ意味を持つ選択肢にバイアスをもたらしますよ、と。これが最も手っ取り早く説明できる行動経済学の根幹の考え方です。

「期待」の考え方


 田中 本書中、シュライファーとジェンナイオーリは「外挿的期待」を一部は好意的に、一部は批判的に扱っています。これは過去に起きた事象が将来も起こるだろうと考え、機械的に予測を立てる、「適応的期待」とも呼ばれているものを指します。経済学では将来起こりうる事象に対していくつかの期待のモデルを組み立てる試みを行いましたが、その結果大きく二段階の発展をみました。ひとつはこの適応的期待。もうひとつは効率的市場仮説の説明で紹介した全員がゲームのルールを理解している状態で、前述のようにゲームのルールがわかっていれば将来予測も可能になり、適応的期待のように過去の出来事だけに拘束されることはない。ゲーム中に起きたことは「そういったこともあるよね」とあくまでもルールに基づいて推測をたてることができる「合理的期待」。主にこのふたつの期待のどちらかが現在用いられています。

 しかし、本書の著者たちの行動ファイナンス的な期待の発想は適応的期待、合理的期待のいずれとも違っていて、そもそもゲームの既存のルールだけでは捉えられないような事象を考慮しなければならない、という新しい形を検証します。

 この3つに分岐した期待の考え方を説明するために、今度はサッカーにたとえて解説します。サッカーのゲーム中、猫がグラウンドに乱入してきた、その事象をもとに考えてみようと思います。まず適応的期待の場合、猫の乱入はまったく予期しないブラックスワン的な現象です。その場で対処できないほどの予想外のショックが起き、その瞬間ゲーム終了となってしまいます。これが適応的期待のモデルで、僕も以前藪下史郎さんと一緒に適応的期待をベースにしたデフレ・ショックのモデルを作ったことがありました。ではゲーム崩壊後はどうなるか、まずはショックが収まるのをひたすら待ちます。そして猫が乱入しないために壁を大きくするとか、万が一乱入したとき用に捕獲するアルバイトを雇う、といった今後の対策を検討し危機に備えます。これらの対策を金融市場的に考えると、流動性を高める金融政策の枠組みを構築しておく、あるいは金融規制のルールを作るといったことが考えられますね。

 つぎに合理的期待のほうですが、あらかじめ決められたゲームのルール内ですべて対処できますので、仮に猫が乱入してきても一旦試合を中断して審判か選手が猫を捕まえてグラウンド外に逃してゲームを再開します。このような予想外の事象に直面してもゲームのルールのなかで常に対応ができると考えるのです。

 ではシュライファーたちは自身らの期待をどう考えているか。前のふたつ同様サッカーのゲーム中、猫が乱入してきます。すると選手たちはボールではなく猫を追いかけだします。捕まえて逃がすのかと思いきやなぜか猫を相手ゴールまで抱えて持っていくと、それが得点になってしまう。今までサッカーだと思ってプレーしていたけれど、実は猫取りゲームだった、と猫の乱入をきっかけに即ゲームチェンジが起きてしまうのです。よくよくグラウンドを見てみるとゴールは巨大な猫のケージに、ゴールキーパーのグローブは猫を捕獲するのにちょうどいいアイテムに見えてきて。ほかの選手はボールではなく猫を追いこむ役目に切り替わった、というわけです。そんな猫取りゲームが今繰り広げられていますが、今度はなんとバスケットボールを持ったペンギンが乱入してくるじゃないですか。すると今度は猫取りゲームから、ペンギンと一緒にバスケットボールをやるゲームに変わってしまいました、と。それまで続いていたゲームがブラックスワン的事象が起きるたびに性格をガラリと変えてしまう。つまり現在理解しているゲームのルールが正しいかどうかが極めて曖昧で、大きなショックのたびに認識の間違いだと気づかされ、都度訂正されていく、という発想です。果たしてこの冗談のようなたとえ話ががどこまで的を射た表現かは定かではありませんが(笑)。

 ちなみに現状のルールでショックに対応可能な合理的期待でも必要に応じてルールを変更することができます。でもルールを変えるときはみんながわかる形で行われなければならず、これをレジーム転換と言います。例えば第一次大戦終結後、東欧諸国やドイツでハイパーインフレが起きましたが、政策当局が従来のゲームのルール、つまり経済政策をみんながわかる形で変更しました。そのレジーム転換によってハイパーインフレがおさまり、マイルドなインフレになった。この経験を応用したのがリフレ派の主張です。デフレが続くような従来の経済政策に対してインフレ目標を設定して、すべての人に明確に理解できるようなゲームのルールに変える、デフレからインフレへ人びとの期待を転換することを目指すという発想です。だからリフレ派は基本的に合理的期待を前提に政策を検討しているのです。

 一方、リフレ派のなかでも僕や浅田統一郎さんのように適応的期待の考え方が好きな人たちもいます。人びとは過去の経験則に拘束される傾向が強く、デフレ期待も根強く刷り込まれているからそう簡単にレジーム転換はできない、という考えで、現在の日銀もインフレ目標未達の原因も一部を適応的期待の発想で説明しようとしています。いままでデフレ期待がずっと続いたので、なかなかみんなインフレ期待に転換できないという形でです。つまりレジーム転換によって人びとの期待がガラッと変わるわけではない、これはある意味シュライファーたちの発想に通じますが、彼らのような行動ファイナンス的なモデルではなく、あくまでも従来の適応的期待におけるブラックスワン的ショックを念頭におきつつ、そこにレジーム転換的なアイディアも考慮している、というのが僕や浅田さんの立場です。非合理的な過去にとらわれている人たちでもきちんと理解できるようにゲームのルールを変える必要があるので、さらに強烈なメッセージが必要になってくる。だから財政・金融の両方をどんどんやらなければ駄目だ、といつも発言しているのですね。その点で、いまの日本銀行の姿勢は不十分です。

 戦前の世界恐慌やリーマンショックは過去に起きた経験と全く異なる予想外のショックだったので、経済全体が期待を裏切る形で落ち込んでいきました。だからこのような事象を説明するためには適応的期待のほうが説明力があるように思えます。合理的期待ではこれらの大きなショックも予想の範囲内だから、衝撃の大きさを説明するには不十分ですね。でも適応的期待なら、今まで積み上げてきたデータからまったく切り離された予想外の衝撃よってガクンと経済は落ち込んだ、という話に繋げやすい。だからシュライファーたちが「外挿的期待」つまり適応的期待のことを好意的に受け取っているのもこういった側面からでしょう。

 一方、それだけではまだ説明に不十分なところがあるということも同時に指摘しています。なぜなら人びとは深刻な事態が目の前で起きているにも関わらず、なぜか「まだ大丈夫じゃない?」と楽観視を継続してしまうと彼らは言っています。足元が燃え盛っているのになぜ気づかないのか、というところをリーマンショックの事例をもとにモデル化しようと試みたのが彼らの本書での狙いのひとつでしょう。

 さらに本書の面白い指摘は、あるショックによって経済が大きく落ち込むけれども、その後似たような話がふたたび内生的に生まれてくる、ということを彼らが作ったモデルのなかで説明しているところです。これを信用サイクルと言って、人びとは非合理的な楽観を形成して手ひどい目にあい悲観するまでその姿勢を続け、懲りずに再び楽観的な期待形成をして、別の衝撃によって裏切られてまた悲観的になる。こうした人びとの思惑が延々とサイクルしていることを説明できたのが、本書の大きな意義だといえます。<つづく>


本編のつづきは以下で読めます

★たなか・ひでとみ=上武大学ビジネス情報学部教授、経済学者。専門は日本経済思想史・日本経済論。著書に『デフレ不況』『増税亡者を名指しで糺す!』『脱GHQ史観の経済学』、共著に『日本経済再起動』など。1961年生。

★もりなが・こうへい=金融教育ベンチャーの株式会社マネネCEO、経済アナリスト。現在は複数のベンチャー企業のCOOやCFOも兼任している。日本証券アナリスト協会検定会員。著書に『MMTが日本を救う』『いちばんカンタン つみたて投資の教科書』『誰も教えてくれないお金と経済のしくみ』、共著に『親子ゼニ問題』など。1985年生。