逸脱のクリエイティビティ

対談=紅野謙介×日高昭二

曾根博義著『伊藤整とモダニズムの時代』(花鳥社)刊行を機に

 近代文学研究者・曾根博義氏の著作集『伊藤整とモダニズムの時代 文学の内包と外延』が花鳥社より刊行された。佐藤健一、紅野謙介、山岸郁子、尾形大の編者の中から、紅野謙介氏と、近代文学研究者の日高昭二氏に、対談いただいた。(編集部)



『伝記伊藤整』、小説モデルへの過剰な興味


 紅野 曾根さんは二〇一六年六月に亡くなられて、今年で五年が経ちます。今日は本書をめぐり、曾根さんの盟友でありライバルでもあった日高昭二さんと、日本の近代文学研究のこれまでと現状を振り返り、曾根さんたちの年代の研究の意義あるいは問題点、現在に及ぼす光についてなど考えてみたいと思います。

 日高 著作集について、伊藤整に関して曾根さんが書いたものを、網羅的に読むことができるのでは、と希望していました。が、今回は一冊ということで、伊藤整に関するものでも、作品論や方法論、文体論などは省かれ、伝記研究の延長上の仕事でまとめられています。『伝記伊藤整 詩人の肖像』を第一章で振り返ったあと、それに続くものとして第二章には「〈伝記伊藤整〉第二部ノート」が収録され、第三章では伊藤整周辺の昭和初期の文学動向へ対象が広がっていく。つまり本著作集では、「伝記第二部」という括りを取り払い、第2章「拡張する放物線」、第3章「点と線をつなぐ」というかたちに編集し直した。ここがこの本の一番の妙味であると感心しました。いま曾根さんを振り返って考えるのに、一番いい編集の仕方ではなかったかと思います。

 紅野 曾根さんの著作をどう組み立て直すかは三人の編者と共にあれこれ考えたのですが、一冊にまとめるならば、曾根さんの研究の最もいい部分を読者に届けたい。それはやはり『伝記伊藤整』から始まり、それを作る過程で身につけた方法論を援用して研究を広げていったところだろうと。「伝記第二部」を本人がまとめられていればよかったのですが、結局同人誌『遡河』に「ノート」のかたちで継続して書かれたものを編集し直すことになりました。

 日高 曾根さんは、『伝記伊藤整 詩人の肖像』という本で、我々を驚嘆させました。ですから曾根さんの研究者としての全貌に、伝記というものがどのように影響しているのか、そこが興味の中心にあります。「伝記第二部」は『詩人の肖像』の次の段階ですから、小説家になろうとした伊藤整についてということになりますが、曾根さん自身、「伝記第二部」は成立しないと感じながら書いていたのではないか。「伝記第二部」は『詩人の肖像』に対して、いまはやりの「変異株」です。

 紅野 面白いですね。

 日高 伊藤整という文学者に、曾根さんは感染し過ぎた結果、統一的な伊藤整の肖像を編むことが困難になっていったのではないか。それはそれで非常に面白い在り方だと思うのですが。

 紅野 曾根さんは「『伊藤整の方法』肉体なき生命の思想」で、文芸誌『群像』の新人文学賞の評論賞を受賞し一九六六年にデビューしましたが、文芸評論活動は肌に合わなかったのでしょう。六九年には伊藤整が亡くなり、『伊藤整全集』刊行を曾根さんが手伝うことになった。そこから文芸評論とは異なる、伝記研究へと向かいます。真正面から伊藤整研究に取り組んでいた日高さんは、『伝記伊藤整 詩人の肖像』を、当時どう受け止めたのでしょうか。

 日高 『詩人の肖像』について言えば、伊藤整自身が『若い詩人の肖像』という自伝小説を書いているわけですね。ですから伊藤整を伝記的に考えようとするときには、まず本人が書いた自伝小説の枠組みから考えます。これは非常に均整のとれた、詩人の誕生を告げるのに過不足のない、青春物語としても読ませる自叙伝です。伊藤整は自虐的な小説家だと思いますが、自伝ではそれをなだらかにして、自分が文学者であることを寿ぐような明朗な小説になっている。

 ところが曾根さんの『詩人の肖像』では、伊藤整に限らず、その周辺の登場人物それぞれの世界へ広がってしまうわけです。いまで言う小説のモデルにどんどん深入りしていって、小説の向こう側に突き抜けてしまう。伊藤整が考える詩人像や青春というものを、裏切ってしまう面白さです。こんなにも充実していて暴露的で、だけど理解があるという、曾根さんの巧みさには敵わないと圧倒されました。

 紅野 一般に文学研究者は、文学テクストそれ自体の分析を中心に考えます。あの時代は特に作品論が強かったので、小説の美学的な意味や表現をどのように鑑賞するかを、中心に研究していた。でも曾根さんは、作者自身による自伝小説には書かれていない、食い違う「事実」を追及し始め、そこに別の物語を発見していく。

 小樽で詩人として同人雑誌に作品を発表し、徐々に読者がつき始めた時代に、読者とどんなやりとりがあり、ある意味で詩をダシにしながら、恋人たちとどんな付き合いをしていたのか。曾根さんはそういう個人的なところへ踏み込むように、かつて恋人だった女性に、どこまでの交際だったかインタビューして、仔細を書いていく。ある種野蛮で、週刊誌的でもあるわけですが、それを抑制の効いた文体で、しかしあるところでは舌なめずりしながら書いている感じが伝わってくる。

 日高 モデルに対する曾根さんの過剰な興味、関心の異様さ、とでもいうのかな。それが「伝記第二部」になるといや増して、曾根さん自身ときどき登場して、これは事実なのか創作なのか、こんなこと書いていいのか、ということまで漏らしていてね。

 紅野 著作集の3章に収録した、永松定や辻野久憲についての文章などはとりわけ逸脱が激しいですね。「伝記第二部」になると舞台を東京に移し、伊藤整が文壇に出ていくことで、登場人物が一気に増えるし、それぞれが一線で活躍する作家や文学者たちということで、追い始めるときりのない運動になっていく。伝記第一部に方法を準じると、第二部は多焦点化してしまうんです。そのあたりが日高さんの言う、変異株ということですよね。その収拾のつかなさが、曾根博義に「伝記第二部」を挫折させるのだけれど、結果的にはその逸脱にこそ、意味を認めていいのではないかと思っています。


文学理論家・伊藤整を位置づけた者


 日高 伊藤整は故郷にいる間は詩人だったけれど、上京して来たときには、自分でも何者かが分からない。文壇の他の人たちは既に様々な同人雑誌に参加して、小説家としてのスタディを存分に積んでいる。伊藤整は小説家のスタディという点では、周囲から遅れているんです。文壇的な繫がりもない。

 そこで伊藤整が何をしたかというと、新しい文学の先頭に立つという試みです。文学の理論化、創作の方法論の確立から始めようとしたのが、伊藤整の困難さだった。それに曾根さんは正面からぶつかっていって、文学理論の歴史的な過程や、日本におけるフロイトやジョイスの受容などについて、文献的な知識を積み上げて、伊藤整まで辿り着こうとする。途方もない書誌的な充実ぶりを据えることで、「伝記第二部」は書かれていった。そこが曾根さんの独自性であり、工夫のしどころだったと思います。

 その過程で、川端康成『小説の研究』の代作者としての伊藤整の肖像を取り上げますが、結果、代作者を転じて伊藤整自身が、小説研究の第一人者になっていくという。このような筋道を曾根さんが考えたことは、大変な力技です。これによって『小説の方法』や『小説の認識』といった著作を持つ、文学理論家としての伊藤整の起源が明確になった。曾根さんは転んでもただで起きない人だけど、伊藤整もそうであったことをまざまざと見せつける、曾根さんの目のつけどころの凄さが分かります。

 紅野 ここでも曾根さんは、アカデミックな文学研究の定型から逸脱していますよね。普通は代作らしきものを見つけたら、そっと除いて、それ以外の作品を論じる。でも曾根さんは、伊藤整がなぜ川端康成の代作をしたのか、その経緯を丁寧に追うとともに、代作によって伊藤整が得たものは何か、という追究に変わっていく。最近では、岩波書店から『〈作者〉とは何か』が刊行されたり、作者や代作をめぐる問題も論じられるようになりましたが、三〇年近く前に、既にそういう問題に突き当たって、研究を残している。本人はその意義を自覚していなかったかもしれませんが、期せずして見つけ出したものを、書誌的な積み上げの中で物理的に証明していく。曾根博義という研究者の持つ生産力は、現在から見ても評価すべきものだと思います。

 日高 新しい文学理論を引っ提げて文壇に登場した伊藤整を、最初に叩いたのが小林秀雄で、「心理小説について」という評論できつく批判した。これが文壇史的定説になって、一種の優劣関係を人々に植え付けたわけですよね。それに対して曾根さんは、小林秀雄が伊藤整を批判した評論の種本が、アーサー・シモンズの評論であり、しかも德田秋聲が誰かに代作させた『小説の作り方』という本の四章目に出てくるということを明らかにする。それで文壇史的な遅速や優劣といった基準が壊されて、改めて伊藤整の小説研究のみならず、代作や種本を含めた日本の小説論史の面白さ、あるいは不可解さを辿る可能性が起こってきた。曾根さんがもっと長生きしていたら、私なども色々と突つかれたところだったと思っているんです。

 紅野 日高さんが言われた通り、伊藤整という作家の捉えどころのなさは、詩人、小説家であり同時に翻訳家であり、さらに文学理論を打ち立てようと試みたところにあります。挙句「文壇史」という奇怪なジャンルを成立させていく。現在では小説家・伊藤整よりも、文壇史の書き手、あるいは新しい文学理論を作ろうとした伊藤整の方に関心が向けられていると思いますが、それを方向づけたのも曾根博義ではないでしょうか。


日本語論への拘泥と、やはり伝記…人への興味


 紅野 曾根さんはしかし、そうした非常に魅力的な研究をある時期脇において、別の方向へ進みます。それは今回の本には入れていませんが、日本語論と言いましょうか。当時は小森陽一さんのテクスト論をはじめ、日高さんも、テクストの中に取り込まれた外部の痕跡を辿りながら、小説空間がどのように作り出されているかを分析していかれた。テクスト精読を中心におく研究が活性化していた時期に、曾根さんは日本語論へ向ってしまうのです。しかも、西洋対日本という構図の中で日本語の表現を論じようとしているのを、私はやや危ういものだと感じていました。

 日高さんは、関井光男さん、曾根さんと一九九五年十一月の『国文学 解釈と鑑賞』誌上で「日本のモダニズム運動と伊藤整」という鼎談をされていますが、そこでも日高さんと関井さんが、曾根さんとぶつかるという展開でした。

 日高 曾根さんは翻訳者・伊藤整への興味から離れることができなくて、その延長上で、西洋の文学を翻訳する際の自由間接話法といった論点に熱中しておられました。その淵源は、伊藤整が翻訳に注力したジョイスの『ユリシーズ』、その小説手法としての「意識の流れ」にあるのでしょう。曾根さんは、人間の主観的な思考や意識が、三人称叙述の中に滑り込んで独白として表出される、と考える立場をとったために、近代小説を論じるときには常に、西洋に立ち向かう日本語を軸にして考えなければならなくなったと思います。小森さんなどは、西洋対日本ではなく、外国語を含めた小説における語りの多様な仕組みを考えるところから始めているので、そこが曾根さんの拘泥の仕方と違うんですよね。

 近代文学研究の中におかれた語り論、あるいは都市論や文化記号論など、外部との痕跡をテクストの中に見るという読み方を、曾根さんは頑なに自分のものではないとされたところがあって、鼎談では、私の関心のありどころには全く相槌を打たれなかった(笑)。

 紅野 曾根さんと日高さんは五歳差だけれど、研究のモードの違いが起きていたのではないでしょうか。曾根さんは新しい研究に結びつく種をたくさん持っていたのに、それを自覚しないまま別の方向へ踏み出してしまった感じがします。自由間接話法など日本語の問題について頻りに論じておられましたが、それは伊藤整が「文学における近代化」を唱え、特殊な日本パターンというものについて「近代日本人の発想の諸形式」として論じたものを、そのまま曾根さんの発想法として移管したものではないか。

 日高さんや関井さんが、たとえばモダニズムについて、資本主義やマルクス主義も視野に入れて考えなければならないとか、あるいは都市の風俗や風景が小説の中に取り込まれているとすれば、その小説表現の中にモダンというものが、一種の葛藤や錯綜として表れてくる、そこを分析すべきだと言えば、曾根さんは、そうではなくて、日本語表現自体の特殊性を見ていかなければならないと。曾根さんは、文学を未だ実体的に捉えているかに見えました。経済史や社会学的な歴史研究は別にあるのだから、文学は表現の問題だけに限定しなければならないと思い詰めているように感じられたんです。

 日高 曾根さんが西洋対日本を軸に、日本あるいは日本語表現の特殊性の解明へ向かったという点ですが、これは伊藤整自身が、日本の近代小説の特色である私小説の「私性」を、西洋文学の「内的な叙述」と結びつけた。つまり日本の私小説を、二十世紀ヨーロッパ文学の最先端と結びつけるという発想で論じようとした。そこに曾根さんは、伊藤整の独創性を見ていたと思います。ですから曾根さんが文学を考えるときには常に、日本の小説の叙述の方法と西洋文学の先端の技法とが、重なるのか重ならないのかを見極めようとした。そこに曾根さんの研究者としての新しい領域が開けるという欲望があったのでしょう。それを明らかにせずに、どうして日本近代文学の実質を論じたことになるのかと。

 紅野 日本研究が世界中で盛んになって、ドイツではキルシュネライトさんの私小説研究が、アメリカではエドワード・ファウラーの『告白のレトリック』が出る。曾根さんも世界の日本文学研究の中で、私小説をめぐるものが最先端だと目配りした上で、この鼎談でも「負けられない」と言っている(笑)。

 日高 西洋の研究者と肩を並べて、伊藤整から広げた独自な私小説論を展開しようという。ただそれならばジョイス論では、永松定と辻野久憲と伊藤整が『ユリシーズ』をどのように翻訳し、読物にしていったのか、そこに踏み込んでもらいたかった。それこそ曾根さんの仕事じゃないか、と言いたいですね。ところが永松と辻野の伝記を調べている間に、いつのまにかラビリンスの方へ、彼らの恋愛と性の方へ深入りして(笑)。

 紅野 再び伝記の方法論が蘇ってしまった。

 日高 いったい共同翻訳という仕事はどこへ行ったのか。面白いけれど、同時に参ったなぁという感じがして。曾根さんの面目躍如たるものは伝記なのだ、と改めて思い返しもしましたね。

 紅野 長所と短所は隣合わせですよね。曾根さんは、伊藤整のジョイスをめぐる翻訳への言及で現代の翻訳論にも繫がるような重要な部分に近づいたけれど、結局踏み入ることなく、伝記的な人間の興味の方へ移ってしまった。翻訳の問題に取り組めば、そここそが曾根さんが追究したかった日本語論を進展させる、突破口だったのではないかと思うんですよね。


研究同人誌の場の力、変異株のゆくえ


 紅野 曾根さんの研究成果は、現在にもう一度意味づけて、生かしていく道があると思うのですが、その際注目したいのは、曾根さんの論文の文体が形式化されていないということです。曾根さんの研究文体や方法を支えていた背景には、本書には収められなかったのですが『評言と構想』という研究同人誌があるのではないかと思います。日高さんも研究同人の一人ですよね。栗坪良樹さん、山崎一穎さん、小野寺凡さん、吉田蕃さん、日高さんという五人でスタートし、その後曾根さんと今村忠純さんが加わります。栗坪さんも三月に亡くなられて、世代交代が起きているとさみしい思いがありますが……。そうした研究同人誌が持っていた場の磁力というものが、かつてはあったと思います。

 日高 私が文学研究へ入ったときには、専門があるのが普通でした。専門の対象は作家論です。自分が研究者として学会に登録されるためには、作家論として一冊にまとまるぐらいの作品研究の持続性、蓄積性を自分で養う必要があった。学会誌に論文が載ったら研究者になる、というのとは違うんですよね。その前提として専門性に至るための研究スタディを、それぞれが独自にするということで、私も伊藤整論を一つ一つ、単行本化を目標に書き続けました。

 その間、同人雑誌の編集は、無類の編集感覚がある栗坪さんが中心になっていましたので、特集を組んでは同人以外の人にも参加してもらう。誌上出版記念会という企画を立てて、曾根さんの伝記も取り上げました。それから「月報 評言と構想」というパンフレット形式のものも作りましたね。その途中で、谷沢永一さんが「署名のある紙礫」を投稿してきまして、あっという間に同人雑誌が、一種の学会ジャーナルのような雰囲気を帯び出します。これは私には全く予想がつかないものだった。

 紅野 アカデミズムの学会誌以外に、文学の勉強をする人たちが物を書いて相互に批評し合うための媒体として、研究同人誌というものが機能していた時期があった。

 私も大学院生の頃に読んでいましたが、研究同人誌は学会誌のように敷居が高くないし、文章も窮屈でなくて面白かったですよね。日高さんの「『幽鬼の街』紀行」や「『雪明りの路』紀行」などは、テクストを街歩きするかのように論じていくわけですが、学会の既存のスタイルとは違うかたちで、研究文体を開発する環境が、研究同人誌にあったのではないかと思うんです。

 そして年上の谷沢永一さんが投稿してきて、越智治雄さん、十川信介さん、平岡敏夫さん、三好行雄さん……といった学者たちに紙礫を投げるという、辛辣な批判を展開していきます。谷沢さんはひしめく同人誌の中で、『評言と構想』が面白そうだと思ったのでしょうね。今回は誰が批判されているのか、必ず確認しなければすまないような状況が生まれ、ジャーナル化していく。私などはすぐ上の先輩たちが作っていたものが、急に脚光を浴び、話題になるのを間近に見ていました。曾根さんもそういう中で、一方で『伝記伊藤整』で注目され、文学研究のホットなところに巻き込まれていった。そうした経緯ゆえに、アカデミックな文体に捉われなかったところがあって、それは日高さんも同じだと思うんですよね。

 日高 「『幽鬼の街』紀行」「『雪明りの路』紀行」などは、本当に楽しく書きました。とても学会誌などには載らないですよ(笑)。

 紅野 研究同人誌が持っていた、雑誌的な活力や文体の自由さは、いまでは文学研究の中に居場所がなくなったように思います。一方で文芸評論は、かつてのようなビッグネームの文芸評論は成り立たない難しい時代になっている。ではアカデミックな研究は自由度を増しているかと言えば、形式的な博士論文を目指すしか方法がなくなっている。

 私は文章のスタイルに、その人の思考法が表れてくると思っています。ある程度のかたちは必要ですが、研究や批評においても様々な文体があった方がいいと思うので、曾根さん世代の人たちの研究法や文体の自由さを、現在に受け継ぐ必要があるのではないかと考えています。

 日高 そのためには、曾根さんの著作集の自由度を、もう一度満喫してもらってですね。読むと笑うところもあるしね。モデルの問題を文学研究上、どのように捉えるかを考えることにも繫がっていくでしょう。

 上京したての伊藤整の麻布の下宿の娘さんに、曾根さんは三度も話を聞いていますね。下宿の間取りや庭の樹木、お稲荷さんがどこにあったかまで書いていて。笑ってしまうのはその娘さんに、伊藤整について記憶していることはあるか尋ねたら、ありませんって。そういうのまで全部書いちゃう。吉田凞生さんは『評伝中原中也』を書いたとき、最低三人の証言がなければ、伝記的事実として認めなかったと言っていました。これは大岡昇平の影響だと思います。一方曾根さんの伝記は、そうした禁欲的な手法など微塵もない。知ったことは全部書く。

 紅野 その吉田さんと曾根さんの仲が良かったというのも面白いですよね。「麻布飯倉片町」の文章などは、それ自体が読物になっています。

 日高 伝記小説になっている。だから変異株だと言うんです(笑)。

 曾根さんの代表作は、やはり一番は『伝記伊藤整 詩人の肖像』ですが、二つ目は筑摩書房から刊行された伊藤整『小説の方法』に加えた懇切な注釈ですね。これは書誌的にも恐れ入る仕事ですし、日本の小説論史、伊藤整を中心とした周辺の人々の発言や評論の淵源まで、見事に掘り起こした労作だと思います。

 紅野 伝記と注釈ですよね。『小説の方法』の注釈は曾根さんの仕事として大きいですが、さすがに注釈だけを収録するわけにはいきませんでしたので、別途手に取っていただきたいです。

 曾根さんの本や雑誌に対する執着は、同僚として見ていて心配になるぐらいでした。教授会の席上で、古書店の目録しか見ていない(笑)。それほどの書誌への執着と、人間への関心が両輪としてありましたね。

 福岡伸一さんによれば、ウイルスは進化の過程で出てくるものだということです。変異株は、進化のプロセスなんですね。研究の方法も、読むことを通して自分の中に取り込まれ、自分の方法にしたり、作り変えたり、変化したものを吐き出すことで、他の人に転移していく。

 今回著作集を刊行したことで、曾根さんの研究に注目する人が出てきたり、その中に曾根さんの方法にとり憑かれたりする人が出てくれば、研究の多様化という点において一つの機運になるでしょう。曾根博義という研究者の逸脱性が持つクリエイティビティも、改めて明らかになったように思います。曾根さんには古書エッセイの類の面白いものがたくさんありますので、また別の機会に本になることを期待したいと思います。(おわり)


★そね・ひろよし(一九四〇—二〇一六)=日本大学文理学部元教授・日本近代文学。
★こうの・けんすけ=日本大学文理学部教授・学部長・日本近現代文学。著書に『国語教育 混迷する改革』『書物の近代』『検閲と文学』など。一九五六年生。
★ひだか・しょうじ=神奈川大学名誉教授・日本近代文学。著書に『伊藤整論』『文学テクストの領分 都市・資本・映像』『利根川 場所の記憶』など。一九四五年生。