本の「ざわめき」、身体性

対談=鶴岡真弓×米澤 敬

『最後に残るのは本 67人の書物隨想録』(工作舎)をめぐって

 工作舎五〇周年記念出版として、『最後に殘るのは本 67人の書物隨想録』(工作舎)が刊行された。収録されているのは、工作舎の新刊案内「土星紀」に連載された本をめぐるエッセイ。刊行を機に、エッセイを寄せた一人であるケルト文化史家の鶴岡真弓さんと、工作舎の編集長である米澤敬さんに対談をお願いした。(編集部)
≪週刊読書人2021年7月16日号掲載≫



日本とケルト/非在のものたちの気配

 米澤 アイルランド、特にケルト文化には、個人的に関心を持ち続けてきたので、ケルト芸術・文化研究の第一人者である鶴岡さんには、是非一度お話をうかがってみたいと思っていました。アイルランドのダブリンにあるトリニティ・カレッジ図書館には、世界で最も美しい写本といわれる『ケルズの書』が所蔵されていますね。アイルランドのキリスト教の修道士たちによる聖書の手写本ですが、装丁や文字の装飾、文様にはケルト文化や思想が反映されている。

 鶴岡 中世修道院の文書館を舞台にした小説『薔薇の名前』が大ヒットしたウンベルト・エーコは、『ケルズの書』からは「文字」と「文様」の文が醸し出す「マーマー(ざわめき)」が聴こえると言いました。中世アイルランドのケルト系の修道士は、正に本をつくる専門家で写字生兼デザイナーで装飾家。典礼と伝道のため、福音書写本を命がけで制作した。福音書はイエス・キリストの物語と教義を伝える書ですが、『ケルズの書』は神のロゴスのページが、異教ケルトの無限循環の文様に埋め尽くされ、「ざわめき」が聞こえてくる解読不可能な聖なる本である。そのざわめきを二〇世紀に聞き届けたのが、エーコも認めるジョイスの『フィネガンス・ウェイク』で、多声が響く最大のマーマーとなりました。

 言いかえれば音声の口伝と固定した文字が、一体のざわめきとして溶け合い絡み合う。アイルランドのではエンヤの歌声もチーフタンズのティンホイッスルも、目に見えない「息」の震え、吐息、ささやきを送り出している。呼吸が音符となり、文字になり、文様になり、解読できないテキストになっていく。アイリッシュ・ケルトの芸術はこの世に固定されていく言葉(文字)ではなく、消えゆく吐息が、聖書のページさえも揺らがせ変容させたと。工作舎のロゴの「土星を巡るメビウスの環」のように、揺れる美学です。

 米澤 具体的な例としては、すぐには思いつきませんが、日本とケルトを対比させることで見えてくるものは、確かにあると思います。最近テレビなどで、日本文化は優れている、あるいは特別にユニークであると、盛んに言われています。けれど、どんな国にもどんな地域にもユニークネスがあります。島国であるがゆえか、僕たちは自国の文化を過剰に評価する傾向がある。そんな状況へのカウンターとして、ケルトは、日本人にとっても分かりやすいユニークな在り方を示してくれる存在だと思います。

 鶴岡 「日本」といえば三島由紀夫が自刃したのは、私が高校生の時です。その死から私たちが日本を見反すには、どういうアプローチが必要なのか考え、近いアジアではなく遠くても近いかもしれない遠国の芸術に目を向けたらどうかと思ったのでした。文明と芸術の歩みのなかで「ユーロとアジア」はお互いが合わせ鏡となって、プレートの歪みと揺れのように共に浮き沈みしてきた。「ユーロ=アジア世界」という造語を私が密かにしてみた理由がそこにあり、西の極みのアイルランド、東の極みの日本列島文明を向き合わせてみた。共通するのは、今言いました文字を記すにも書をつくるにも、見えない閾、非在の者=死者たちへの常なる意識とそれが送ってくるパワーの気配を芸術化すること。

 死者を供養する厳かな夜、ハロウィーンの起源はケルトの「万霊」節で、不可視の祖霊や死者のスピリットに、生きている私たち生者が力をもらって初めて一年が浄化される。日本列島人も戦の後、常に死者たちに生かされてきたといえる。アイリッシュ・ケルトや近代日本は、生者が死者を慰めるのではなく、その逆である。霊魂たちに、想像もつかない質量のパワーを頂いてきた歴史だったのではないでしょうか。


「残る」について/『ケルズの書』の装飾性

 鶴岡 ここで繫げると、対談に当たり『最後に残るのは本』の「のこる」を漢字源で確めたら実に意味深くて、「遺る」の「遺」は「財としての貝を両手で与えるポーズ。贈与」の形。一方恐ろしいことに、「残」とはヒトの死の骨、残骨に由来。つまり書物、本とは、人間の叡智やポエジーが、死を抱えて物質化したものとも言えるのかも知れない。しかしたとえ残骨のように風化したとしても、本が放つ不可視の「ざわめき」は宇宙に浮遊して生きのこり貝のような財を振りまく。図らずも『最後に残るのは本』は、人類が生き残れるかどうかのパンデミックの只中で刊行されました。いったん「標本箱」に横たえられたものを、時を越えて纏められた英断であり「最後に残るのはなにか」という未来へ問いかける書となっているのですね。

 米澤 『最後に残るのは本』というタイトル自体は、僕が考えたものではなく、本書に収録されている多田智満子さんのエッセイの引用で、もとはフィデル・カストロによるものらしいのですが、パンデミックをはじめとしたパンドラの箱を開けてしまったような状況下で、「最後に残る……」というタイトルは非常に象徴的だと思います。3・11のときには、本は何の役に立つのだろうかと考えていました。本がなくても僕たちは生きていくことはできる。けれど、手元に本が一冊もないというのは何とも心もとない。なくても日常生活に支障はないし、ときには邪魔にさえなるものですが、それがないことを意識した途端に、不思議な欠落感を覚えるのが本です。不遜な表現ですが、そういった意味では、本は神様に似ていると感じました。特に信仰を持っていない僕のような多くの人たちにとって、神様はいなくても困りはしない。でも、どこかで頼っている。非在のものからパワーがもらえるという意味でも、神様に近しいのかもしれません。

 鶴岡 本書で松山巌さんは、本の「価値」を逆説的に綴っていますね。タクシー代が財布になかった松山さんは急いで部屋に入り、担保として本をタクシードライバーに渡そうとした。けれども、結局カメラを手渡した。書き手としての誇りと自虐に満ちた、反語的な逸話ですね。

 米澤 『ケルズの書』が持つざわめきのように、本の魅力はそこに綴られている内容だけではありません。ささやきとか、ざわざわしたものを内包しているからこそ、松山さんや鶴岡さん、僕も含めた多くの人を惹きつけるのでしょう。コンテンツや意味を知るだけなら、電子書籍で十分でも、そこには「ざわめき」はありません。人間が生きていくには栄養摂取は不可欠ですが、栄養を取るだけなら、極論すればサプリメントでまかなえます。でも、サプリメントで栄養を摂取することと、食事をすることは全く違う。本と電子書籍の関係は、料理とサプリメントの違いに通じるものがあります。

『ケルズの書』の装飾は、必ずしも聖書の内容を絵解きしているわけではありませんよね。意味を記録し伝達するだけならば、装飾は不要です。にもかかわらず、『ケルズの書』では一般的な聖書図像学には収まりきれない装飾性が追求されている。その理由について、鶴岡さんはどのようにお考えでしょうか。

 鶴岡 『ケルズの書』は、キリスト教の聖書写本でありながら、紀元前から金工芸術に盛んに表された渦巻文様でページが埋められている。それはキリスト教からすると、異教の「生命循環」への祈りが反映されているように揺らめいてみえる。そもそも、キリスト教の聖書写本も動物の生命の上に作られた書物です。子牛皮紙や羊皮紙という獣皮からできていて、『ケルズの書』の場合八〇〇から一二〇〇頭の子牛を殺めて制作したという。神のロゴスを、生々しい獣皮に宿らせる。書物が生きとし生けるものの身体になり、支持体となっているわけです。

 現代の本の紙やインクも、植物や鉱物の生命からできている。中世の『ケルズの書』の子牛皮紙のページは、正に生命としての本を残すためにそこに呪的な渦巻や動物や組紐や結び目文様を満たしたのだと思います。本が「最後まで残る」ためには、書物をリアルな生命循環の「身」として見直すことが大切でしょう。


「工作」すること/コデックス形式

 米澤 やはり今の本の作り方は、意味や内容に囚われすぎている気がします。写真も含めて本を装うものがイラストレーションになってしまっている。つまり説明や連想であって、意味に従属している。『ケルズの書』のような、イルミネーションとしての装飾が、近代以降の本からは欠落してしまったのかもしれません。出版社の人間が言うのは無責任かもしれませんが、最近の本は、造本も装丁もフラットでミニマルになりすぎています。

 鶴岡 「イラストレーション」は内容の「絵解き=読解」の手助けを果たすのが第一義です。一方「イルミネーション」は「装飾=荘厳」であって、文字通り人の心や世界の「闇に光を入れる」ことを願い施される。いずれにせよ、ヒトは「工作するヒト=ホモ・ファベル」であり続けることによって、「知恵のヒト=ホモ・サピエンス」であるということです。レオナルド・ダ・ヴィンチが「全能」の人と呼ばれるのは卓越した工作者の謂いであり、知恵のヒトであるためには、手を動かし巧み続けなければならない。その工作、本を作るという行為は「工作舎」の社名にも象嵌されているように。

 ヒトは地球の主人公だと豪語してきたけれど、いったいどれほど偉かったのか。今や手業が退化したことも知らぬ我々ヒトの傲慢さを、ウイルスに暴かれているのかも知れません。機械任せでサプリを摂るだけの人類は、大自然に沿わない存在となっていく。逆に今こそ畑を耕作し本も「工作する」生を取り戻すチャンスなのかもしれません。

 米澤 工作舎という社名は、雑誌『遊』の編集長だった松岡正剛が名付けました。その工作舎の新刊案内「土星紀」に載せていたエッセイを集めたものが、『最後に残るのは本』です。鶴岡さんにも、「コデックスのコード」というエッセイをご寄稿いただきました。

 鶴岡 ありがとうございます。「コデックス」とは「冊子」形の書物。つまり一般の本の歴史では本や出版の革命は、一五世紀のグーテンベルクの活版印刷技術にあるといわれてますが、革命はそれ以前にあった。グーテンベルクより一千年以上前の四世紀に、水に弱く耐久性の乏しいパピルスによる「巻物」を脱して、獣皮を材料とする羊皮紙葉を束ねた「コデックス」の形が誕生した。ロール形式の巻物本から、コデックス形式の冊子本に変化した、大革命でした。よく考えてみると、以来一七〇〇年以上にわたってコデックス形が今日まで継承されているのは、すごいことです。文物は時間とともに形が変化するものですが、冊子型は書籍の鉄板であり続けています。

 文字・文章のテキスト部と、装飾・挿絵のイメージ部が付かず離れず共存共栄する乗り物がコデックス。即ち文字を扱う編集者と、装飾や挿絵を担当するデザイナーの対等な協働が始まった。互いが自立しつつ、各ページが部屋として閉じているのでもない。西洋では写本が冊子形式で定着した中世から、『ケルズの書』などに見られる通り、「文字と文様」のページが分かれつつ、交流できた。

 文字と文様の「文」は、共に「あや」の意ですね。観念とイメージのそれぞれの森羅万象を表現している。「羅」とは縦横に加え、斜めの糸が入ってくる織物、テキストである。書物とは、森や羅のように複雑に万象が記され表されているものです。そういえば文字のかたち、「フォント」の語源は「泉」であり「速い流れ」でもある。ケルトの修道士も、どこまでも世界を開いていくコデックスのページに、独特のフォントを走らせ書き描いたのでした。

 米澤 初代編集長の松岡は、編集においてダブルページを意識することの重要性を強調していました。要は、コデックスですね。見開き、ダブルページをどう構造化するか、あるいはデザインするか。全体の流れや構成を頭に置きながらも、常にダブルページを意識している必要があるということです。一方で電子書籍の構造は、巻物(ロール)形式です。巻物には巻物ならではの魅力もありますし、電子書籍を否定するつもりもありませんが、コデックスという形から生まれた協同性と冒険性が、スクロール媒体では失われている。また複製メディアというものを考えたとき、電気を使わずアクセスできるメディアは、いまやペーパー・メディアだけになってしまいました。無人島に行っても、磁気嵐で電力がシャットダウンしても、本はページを開くだけで、その世界に入っていくことができます。

愛おしきもの、かなしきもの

 鶴岡 そうですね。本書はどのエッセイも面白かったです。夢枕獏さんはヒマラヤで雪のベースキャンプに閉じ込められた時、『今昔物語』に救われた。遠国への旅には普段読めない古典や科学書、難解なオカルト本などをもっていくのがベストだと。池内紀さんや加藤幸子さんの実体験も味わい深く、池内さんは編集者とデザイナーとご自分・書き手の三者で温泉宿に行く。締め切りの辛さが書き手の地獄であるが、その苦こそが極楽のようです。加藤さんは、子供たちに開放した小さな書棚から井伏鱒二訳の『ドリトル先生航海記』の三冊を盗んだ少年との交流を、名随筆で描いています。本を盗んでしまった少年のことを大切な思い出として、いまだに盗まれた分は買い足す気分になれない。年齢も背景もまったく違う他者との接点に、本がある。本を通じた永遠の交流が、炙り出されるのです。

 米澤 僕自身は編集担当なのでどれか一つを選ぶのは難しいのですが、最初に自分で原稿依頼したエッセイということもあって、小松和彦さんの「泣いた赤鬼」が印象に残っています。小松さんの専門領域と幼い子どもの好奇心が、一冊の本を巡ってこんなにもうまく出逢うことがあるのだと驚きました。小松さんの原稿は一本目ということもあって、次に執筆される方にとっても一つのお手本として読まれたのだと思います。

 鶴岡 本書のトリの松浦寿輝さんは、本はパルプ、木であって「枯死した植物の死骸」と詠じる。本は、かそけき「モノに宿る霊魂が活動する」というアニミズムからも捉えられますね。インクにも紙にも生と死がある。

 日本では『万葉集』で「愛」とは、かなしいほど愛おしいという意味で使われていますね。肌身離さず傍にあるものへの愛を、「かなしい」ものと表現する文化。生と死に、祈りがあります。手に取り、眺め、触って、読むという行為を通じ、愛おしさの中で本は自分自身の一部になっていく。愛おしきものが「最後に残る」。今パンデミックの刻々にも、本は私たちの生身の細胞の一部となっていくのではないでしょうか。

 本は、愛おしきもの、かなしきものであり、それゆえに人類が残骨になっても、万物の命の証として存在するのではないか。本書に参加させて頂き、読んで、編集長の米澤さんとお話させて頂いて、改めてこの想いが強くなりました。

 米澤 ジャン=ジャック・ルソーが、「あらゆる時代の中で、今世紀ほど本が読まれたことはなく、同時に今ほど人々が無知だった時代はない」と言っているように、今に始まったことではないのかもしれませんが、現在、出版産業が向かっているのは、ファストフードやファストファッションに近い流れだと思います。手軽に読めるというのは、もちろんありがたいけれど、本の在り方は一様ではない。豪華本や文庫、新書や電子書籍とたくさんあっていいと思います。ただ、ファストブックに偏りすぎると、コデックス形式の書籍は電子書籍と対抗できません。別に対抗しなくてもいいのですが……。

 動物、植物、鉱物を使って本は作られていると鶴岡さんが仰っていましたが、出版社はそういうところまで立ち戻って考えてもいい時期でしょう。今は紙問屋から紙を買い、流通は取次に任せる。というように、効率はいいものの、何もかも任せすぎです。ときには素材を作るところまで、もっと出版社、あるいは編集者が関わることがあってもいいはずです。そうなると、これまでみたいなコストでは書籍は作れなくなってしまうでしょう。けれど、人類がいつまで続いていくのか不透明な時代だからこそ、本の作り方をもう一度、『ケルズの書』の時代まで立ち返って検討してもいいのかもしれません。工作舎がどこまでできるかは分かりませんが、それが最後まで残る本に対しての、礼の尽くし方だと思います。(おわり)

★つるおか・まゆみ=ケルト芸術文化・ユーロ=アジア造形表象。多摩美術大学美術館館長・IAA所長。著書に『ケルト装飾的思考』『ケルトの想像力』『ケルト再生の思想』、訳書に『ケルズの書』など。

★よねざわ・けい=工作舎第三代編集長。編集を手掛けた書籍に『TRA(トラ)』『にほんのかたちをよむ事典』、著書に『B ビートルズの遊び方』『編集舞い舞い』など。