思考の自由を取り戻し、複数の未来を提示する

対談=樋口恭介×木澤佐登志

『未来は予測するものではなく創造するものである』(筑摩書房)刊行をめぐって



 作家・ITコンサルタントの樋口恭介氏が『未来は予測するものではなく創造するものである 考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』(筑摩書房)を上梓した。刊行を機に、思想やインターネット文化など、幅広い領域で執筆活動を行なう木澤佐登志氏と、対談をお願いした。(編集部)
≪週刊読書人2021年8月27日号掲載≫


自己啓発本に擬態した「変革の書」


 樋口 最初に、この本を書こうと思った経緯をお話しします。僕は普段ITコンサルタントとして働きながら、SF作家としても活動しています。ITコンサルタントの主な仕事は、テクノロジーを使って未来を変えるための議論や提案をすることです。目の前の現実とは違う先の世界を想像し、どうしたらその未来に辿り着けるかを考える。それはSFとすごく親和性がある仕事だと僕は思っているのですが、仕事で出会う大半の人は「SFはフィクションで、ビジネスとは違うもの」と線引きをしているんですね。SFと現実が折り重なって見えるのが当たり前だと思っている僕にとって、その線引きは不思議だったし、もったいないとも思っていたし、どっちにいても居心地の悪い感じがしていました。

 そんな折に、木澤さんが書かれたブログを拝読しました。中でも、ニック・ランドを紹介した「オルタナ右翼の源流 ニック・ランドと新反動主義」という記事がとても衝撃的だった。後に『ダークウェブ・アンダーグラウンド』や、『ニック・ランドと新反動主義』として刊行されていますよね。加速主義、新反動主義の旗手とされるランドは、トランスヒューマンやポストヒューマン世界を目指しており、その影響源には間違いなくSFがあります。SFで世界を変えようとしている人間が世の中にいることも驚きでしたが、その思想がネガティブな面で世の中に表れていることに、大きなショックを受けました。記事を読みながら、僕が目指している「SFで世界を変える」というのは、かなり危険なことなのではないかと思い、これまでの自分の考え方を相対化される一方で、これはSFの世界に身を置いている人間として何かアンサーのようなものを返すべきなのではないかと勝手に思ったのです。

 そこから、ランドと同じくSFに軸を置きながらも、ランドが示した未来とは別様の未来が探索できないかという、新しい問題意識が生まれました。スペキュレイティブ・フィクションやデザインフィクションとしてのSFを捉え直すことで、ランドが目指すような「単一の未来」のありかたとは違う未来にアプローチしていく。『ダークウェブ・アンダーグラウンド』が紹介していたオルタナ右翼に対するカウンターとして、いわばオルタナ左翼的なSFのあり方を僕なりに考え、まとめたものが、本書『未来は予測するものではなく創造するものである』です。

 木澤 フィクションが現実に対して再帰的に影響を与えるという点では、ランドが九〇年代に立ち上げたCCRUが提唱したハイパースティションの概念と、樋口さんの考え方は近いかもしれません。もっとも、CCRUにはマーク・フィッシャーやダブ・ステップのオリジネーターのひとり、Kode9も所属していたりと、決して右派的な組織とは言えなかったし、それこそSFと現実の再帰的な関係性について常に思考していたと思います。そういえば、テッド・チャンはある座談会の中で、フィッシャーを引用しながら「SFは現状の変化についての物語であり、であるからこそ潜在的に政治性を帯びている」といった趣旨のことを言っていました。樋口さんも、左派的なポジションからSFとともに「現状の変化」=「未来」について思考している人だと思っています。

 本書を最初に読んだとき、「この本はただものではない」という印象をまず抱きました。言ってしまえば、自己啓発本に擬態した資本主義打倒の本、「変革の書」であると感じたんです。巷にあふれている自己啓発本は、いわば唯心論的なものばかりです。「自分が強く願えば自分/世界は変わる」「自分さえ変われば、すべてが変わる」といったポジティブ・シンキングのイデオロギーに貫かれており、「強い自己」を前提とした、競争社会で自己責任を強調する態度が鮮明です。こうした態度が、リベラル能力資本主義とも親和的であることは言うまでもありません。自己啓発の力点がどこまでも自己の内面にある限り、それが何らかの環境の変化や社会変革に繫がる可能性はほぼないでしょう。

 しかし、樋口さんの本の場合は、そこに「制約事項」を盛り込み、環境の方を変えるべきだと主張することで、自己啓発の力点をきれいに反転させてみせた。この本で述べられている制約事項とは、主に環境の側にある既存の硬直的な制度を指している。たとえばそれは、近代のイデオロギーであったり、資本主義の条件であったりするでしょう。それら制約事項をいかに取り払い、複数の未来を思考するか。言ってみれば、自己啓発ではなく、世界啓発(?)の書、それが『未来は予測するものではなく創造するものである』なのではないでしょうか。

 もう一つ、先ほど仰られたように、樋口さんからは、オルタナ右翼からミーム戦略を奪還したいというモチベーションを常に感じます(そのことは本書の後書きからも伺うことができます)。かつての左派は、グラムシのヘゲモニー理論に象徴されるように、イデオロギー戦略的な運動を積極的に行っていた。けれど現在では、そうしたイデオロギー戦略はオルタナ右翼のミーム戦略に取って代わられている。たとえば、フランスにおける新右翼(ニューライト)の主要プレイヤーである政治哲学者アラン・ド・ブノワは、「右翼グラムシ主義」を標榜し、情報メディアなども活用しながら広報に努めていた。ブノワはロシアの新ユーラシア主義兼ポストモダン右翼を代表するアレクサンドル・ドゥーギンにも好んで引用されるなど、現在のオルタナ右翼や右派ポピュリストに見られる、インターネットなどを駆使した情報戦略に明らかに影響を与えています。

 樋口 よく言われますが、現在の左派の中心的な存在であるポリコレ左翼は学級委員のようです。ポリコレには、一つの大きな規範があって、そこから漏れた者は弾くという力学が働いています。僕はそういう姿勢にはあまり共感できません。その一方で、オルタナ右翼は漏れ出るものを可視化する作業をしていると思っていて、その運動には意義があると思います。フェイクニュースはもちろん害悪ですが、そもそものニュースやファクトと呼ばれるものにも一定のフェイク性がある。フェイクニュースやポストトゥルースと言われる現象はそのことを暴いていると思いますし、それはもともと左派がポストモダニズムの中で指摘してきたことです。僕は、左派はオルタナ右翼からポストモダニズムを奪還しなければならないと思います。

 しかし、そんなことを言っていても聞いてくれる人は一部のインテリや人文マニアだけだったりするので、そうではない仕方で、そういうメッセージを伝えたいと思っていました。ですからこの本は、ビジネス書や自己啓発本のような姿をしています。普段はビジネス書や自己啓発本を読んでいる普通の人、どちらかと言えば市場迎合的で右派に整理されてしまうような普通の人たちが、いつもどおり何気なくビジネス書を読むようにして、左派によるオルタナ右翼の再解釈みたいなものに触れてしまう。そんな本を目指したつもりです。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


<★ひぐち・きょうすけ=作家・会社員。著書に『構造素子』『すべて名もなき未来』など。一九八九年生。

★きざわ・さとし=文筆家。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド』『ニック・ランドと新反動主義』など。一九八八年生。