「分からない」を愉しむ文学評論

対談=竹内康浩・阿部公彦

竹内康浩・朴 舜起著『謎ときサリンジャー』(新潮社)刊行を機に



 J・Dサリンジャーの有名な短編「バナナフィッシュにうってつけの日」は、〈若い男〉の拳銃自殺によって物語が閉じる。しかし、男の死は本当に自殺だったのか?
 竹内康浩・朴舜起著『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮社)は、サリンジャーの各作品を通じてその謎を解き明かしていく本格評論である。刊行を機に、著者の一人である竹内氏と、本書に解説を寄稿した英文学者の阿部公彦氏に対談をお願いした。(編集部)
≪週刊読書人2021年9月3日号掲載≫


文体を見つける/「若い男」の死について


 阿部 今回の本は、いつにも増して竹内節を感じさせる一冊でした。サリンジャー関連の本は、『「ライ麦畑でつかまえて」についてもうなにも言いたくない』、『ライ麦畑のミステリー』に続き、三冊目だと思います。刊行数を重ねるにつれて、竹内くんらしさが前にもまして濃厚になり、本書では特異な領域にまで踏み込んでいます。「解説」でも書きましたが、竹内くんの書く謎解き本は、「問うこと」へのこだわりが他の人と段違いです。『謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』』でもその執拗さは感じられますが、今回の本の探求ぶりはさらに一歩進んでいて、もはや畏怖の念さえ感じる。あまりに独自の世界が展開されているので、いかに一般の読者にその世界を開いていくか。今からの悩みどころであり、楽しいところでもあると思います。執筆した本人としては、今までの本と比べて一味違うと感じている部分はあるのでしょうか。

 竹内 まず、今までの本より書き方を工夫したつもりです。読みやすさにこだわったというか。それでも小難しいかもしれませんけど。英語で論文や評論を書くと、どうしても事実や発見を伝えるだけ、報告するだけになってしまう。しかし、せっかく母語で書くのなら、自分でも表現を楽しみながら工夫したいと思って。ですが、書き始めてすぐに、自分にはまともな文体がないと気付いてしまった。加えて、評論を書いたことがある人は経験すると思いますが、自分の頭では全体が見えていても、それを文章で一つ一つ直線的に表現するのは大変なことです。たとえば野球とは何かをいちいち言葉で説明するようなものです。この本でも同じ壁にぶつかって、どうしたものかと悩み、お手本を探しました。それで行き着いたのが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』です。さまざまな出来事が同時進行している幕末の世を扱っていながら、上手に腑分けして、何より読者を楽しませる。だからきっとお手本になるのではないかと思い、全巻読みました。まぁ、作業からの逃避の意味もありましたが。

 阿部 さすがですね。私もですが、竹内くんも英文学会では明らかに非主流派でしょう。だって、普通の英文学者は司馬遼太郎を読んで本や論文の準備をしない。別のお手本がありますからね。今のお話で面白いと思ったのは、文体がないと気がついた点です。英文学者に限らず、評論を書く人間は書きながら考えたり、書くことそのものが好きで、書いているうちに文章に「らしさ」が滲みだしてくるものです。特に、文芸評論家はこのパターンが多い。けれど竹内くんの場合は、頭の中に書くことのマップがあって、それを文章化していったのでしょうか。

 竹内 今まではそうでした。どんな順序で書くかが悩みどころで。でも今回は博士課程の朴くんと共著ということもあって、書きながら考えていた部分も多かったと思います。本書で追っている最初の謎は、サリンジャーの短編「バナナフィッシュにうってつけの日」(『ナイン・ストーリーズ』)のラストで、「自殺したのは誰なのか」です。この謎が思っていた以上に複雑で、サリンジャーの作品全体から考えなければいけないものでした。最終的な着地点が『ライ麦畑でつかまえて』になることは、なんとなく分かっていました。しかし、そこまで到達するのに、相当な回り道をしなければならなかった。鈴木大拙と禅はよいとしても、芭蕉の俳句や時間論みたいなものまで読まなければいけなくなるとは、予想していませんでした。

「バナナフィッシュにうってつけの日」は、「若い男」が拳銃で自分の頭を撃ち抜いて物語が終わります。簡単なあらすじを述べると、以下のような話です。舞台となるのは、フロリダのリゾートホテルとビーチ。妻と休暇を楽しんでいた(はずの)シーモア・グラスは、バナナフィッシュという奇怪な魚について、浜辺にいた少女に話します。その後、ホテルの部屋に戻った男は、突然自分の頭を拳銃で撃ち抜いて死ぬ。銃声と同時に、物語は幕を降ろします。しかし、この「若い男」の死は本当に自殺と呼べるのか。そもそも男の死は突然すぎて「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んだだけでは理解しがたいものになっています。

 物語の後半部分で、名前ではなく「若い男」としか記されない彼はいったい何者なのか。そういう疑問から書き始めてみたものの、最初は全然進みませんでした。サリンジャーは「バナナフィッシュにうってつけの日」を書いた後、〈グラス家のサーガ〉をずっと書き継いでいます。それらを含むサリンジャーの作品を読み込んでいくほどに、やはり「若い男」の死に最大の謎があるという想いが強くなっていきました。後の作品で、シーモアには弟バディーがいることが分かります。バディーは作家で、〈グラス家のサーガ〉を書いた人物として登場します。その彼の存在が「バナナフィッシュにうってつけの日」の中に感じられるんですね。けれど、別の作品を読めば、バディーには確実なアリバイがあると分かる。バディーが男の自殺の場にいたことを示す証拠は上がるけれど、アリバイと矛盾してしまう。その謎が解けないままでした。死んだ男はシーモアのようでいてバディーのようでもある。だから、どちらが自殺したのかよく分からない。そこで、今度は「どちらか分からないという事態は、いったい何を意味しているのか」と考えねばならなくなりました。すると光明が差した。ようやく論が展開できるようになった。「分からない」という部分そのものが、サリンジャーの作品では重要だったのだ、と。そこに気がつくまで、ずいぶん時間がかかってしまいました。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★たけうち・やすひろ=北海道大学大学院文学研究院教授・英文学。著書に『ライ麦畑のミステリー』『謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』』など。一九六五年生。

★あべ・まさひこ=東京大学教授・英文学。文芸評論家。著書に『善意と悪意の英文学史』『理想のリスニング』『英文学教授が教えたがる 名作の英語』など。一九六六年生。