目次

    Part1

    Part2

資本主義vs.脱成長コミュニズム
人びとにとっての希望の社会とは

柿埜真吾インタビュー

『自由と成長の経済学』(PHP研究所)刊行を機に

Part1

 斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社)がベストセラーである。気候変動、コロナ禍といった直近の課題をどう解決するか、新しい時代のマルクス経済学の観点で考察1冊として多くのメディアにも取り上げられている。果たして斎藤氏の主張は正しいのか? 今まで批判的に検証されることが少なかった『人新世の「資本論」』を真っ向から批判し、細かく問題点をあぶり出した柿埜真吾著『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP研究所)が刊行された。

 資本主義社会が人類にもたらした恩恵、共産主義社会が辿ってきた歴史などをデータをもとに紹介しつつ、正々堂々としたスタンス、論拠で斎藤氏批判を展開した著者の柿埜氏にインタビューをし、今ブームの「脱成長コミュニズム」の危険性などを語ってもらった。(編集部)
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『人新世の「資本論」』は何が問題か?

 ――柿埜さんは新著『自由と成長の経済学』で斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』を痛烈に批判しています。まず、本書で論じられた「脱成長コミュニズム」の誤りについて簡単にご解説いただけますか。

 柿埜 まず、斎藤幸平氏は自身のベストセラー『人新世の「資本論」』で、資本主義のもとでは必ず経済成長が起き、それが原因で温暖化による環境破壊、あるいは自然災害もたらす。だから資本主義をやめて資源をみんなで共有し管理する共産主義を目指そう、といったことを論じているのですね。これが大まかな「脱成長コミュニズム」の論旨です。

 私は本書を通じてこの「脱成長コミュニズム」の問題点を指摘したわけですが、まず一番の大きな問題は脱成長を目指す社会、あるいは共産主義社会は環境に優しくない、ということがいえます。チェルノブイリ原発事故をはじめ現代社会の深刻な環境破壊を頻繁に起こしているのはソ連のような共産主義国ですよね。そもそも共産主義体制下では資源を効率的に使うことができませんので環境破壊を誘発しやすいのです。

 それにも関わらず斎藤氏は気候変動による災害、または現在のコロナ禍すら資本主義による弊害だとみなし、あたかも人類がこれまで歩んできた道が間違いだったといわんばかりですが、それは間違いです。なぜなら資本主義社会が成立するはるか以前から人類は何度も壊滅的な疫病、例えば黒死病のようなものに見舞われていますし、あるいは大規模な自然災害にも繰り返し直面しています。ですから斎藤氏が説く「資本主義以前の世界は自然と調和した豊かな社会だった」というのは完全な幻想であり、資本主義社会が進展している現代のほうが疫病や災害の被害が格段に減少している、これはデータからも明らかなのです。

 さらに「脱成長コミュニズム」社会では、すべての資源の使い道を共同体 内での話し合いによって民主主義的に決めるといいます。これ自体聞こえはいいのですが、このやり方をとる以上、全会一致でないかぎり多数派の意見が押しつけられる専制政治、あるいは権力者が独断的にルールを決める独裁政治に陥り、最終的に自由のない全体主義社会に行き着いてしまう危険を孕んでいる、そういった問題を抱えています。

 斎藤氏によれば、「脱成長コミュニズム」は使用価値経済です。この社会では、「意味のないブランド化」、「マーケッティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止され」、「「使用価値」を生まない意味のない仕事」も認めないというのです。 しかし、一体誰がその「使用価値」を決めるのでしょうか。資本主義では、ある商品に価値があるかどうか決めるのは一人一人の消費者で、多様な選択ができますが、共同体で資源の使い道を決める社会では、よくても多数派の意見の押し付け、悪くすると独裁者の主観が商品や職業の価値を決めることにならざるをえません。これが言論の自由も職業選択の自由もない全体主義社会であるのは明白でしょう。



「脱成長コミュニズム」社会の行き着く先

 ――今お話いただいたように「脱成長コミュニズム」は決定的な問題があるにも関わらず、どうして『人新世の「資本論」』で論じられている斎藤氏のアイディアは多くの人に支持されているのでしょうか?

 柿埜 「脱成長コミュニズム」が盛りあがっている理由を挙げるならば、今のコロナ禍による閉塞感に満ちた息苦しい社会とは違う希望のある場所に行きたい、そんなふうにみんなが思っているからなのかもしれません。

 ではマルクス主義的なものが人びとを理想の社会に導いてくれるのかというとそんなことはないのです。どうしてそう言い切れるかというと、マルクス本人が理想的な社会のイメージを描くことができず、具体的なビジョンを彼は著作のなかではほとんど残すことができなかったからです。そのためマルクス亡き後のマルクス主義者たちは好き勝手に自分の望む理想社会を夢想して、そこにマルクス経済学というフォーマットを当てはめていったのですね。ある意味これこそがマルクス主義の強みだともいえるのですが。ただ、共通の絵が描けない以上、マルクス主義者同士で解釈の違いを巡ってしばしば論争が起きますし、ひどいときには内ゲバに発展したりもする。その歴史を繰り返して今に至り、現在は気候変動やコロナ禍といった新しいエッセンスを加えた今風のマルクス主義のバージョンが出てきた、という理解です。

 もうひとつ、これは本書でも書きましたが、脱成長や共産主義的な考えの根底にはゼロサム的な発想があります。つまり「誰かの得は誰かの損である」という発想ですね。ひとりだけが利益を得るのはズルいから、資源を社会全体で均等に配分して統治していこう、という結論に至るわけです。これは資本主義成立以前のはるか昔からある人類の根源的な倫理観に直結しているので、共産主義的なアイディア自体は人類にとって非常に馴染み深いんですよ。

 とはいえ、今「脱成長コミュニズム」が流行るのは私にとってはすごく不思議な現象でして。なぜかというと、緊急事態宣言によって生活が規制されて、そのうえ所得も下がった今の暮らしのように、「脱成長コミュニズム」社会でもCO2排出削減のため人びとの行動を極端に制限し、なおかつ所得の減少を目指す生活を要求するわけですから、今の緊急事態宣言以上のひどい社会になるのは間違いないのです。斎藤氏の本に賛同している多くの人たちはそんな社会の訪れを待ち望んでいるということでしょうか。

 ――柿埜さんは脱成長した社会のイメージとして今のギリシャの姿を挙げていますよね。

 柿埜 経済破綻後の今のギリシャ国民は、所得が低下し非常に苦しい生活をおくっています。生活が苦しいと、こうなったのは誰か悪い奴がいたせいだという話になる。そんな怨念めいた感情が国中に満ちて、ものすごくギスギスした酷い社会になってしまったのです。ギリシャはもともと左派政党が強い国柄でしたが、一時は「黄金の夜明け」というきわめて排外的な極右の陰謀論政党が第三党になりました。こういった一例が示すように斎藤氏が主張する「脱成長でみんなの心が豊かになる」という論はまったく現実に適っていないと言わざるを得ないのです。

 ――ところで柿埜さんは斎藤氏の論に対して仔細に批判をくわえる一方で『人新世の「資本論」』を評価している、ともおっしゃっています。このあたりについてご解説いただけますか?

 柿埜 ソ連崩壊後のマルクス主義者たちは目指すべき理想を失ってしまい、まさに自信喪失の状態だったと思うんです。彼らはたびたび資本主義批判をしますが、かといって代替的なビジョンを示すわけでもなく、あげくどうしようもなくなって神頼みみたいなことすら言うようになっていましたので(笑)。そういったマルクス主義者たちを取り巻く状況のなかで斎藤氏は『人新世の「資本論」』を通じて、自身が思い描く理想の未来、将来のビジョンを提示しました。ここは評価できる部分である、ということを本書で書きました。私はあくまで斎藤氏の実現不可能な論が批判に値するから批判しているだけなのです。

 例えば斎藤氏は「脱成長コミュニズム」の事例としてバルセロナの試みを紹介していますが、バルセロナは炭素税を中心にした温暖化対策を明言しているだけであって、決して「脱成長コミュニズム」的な共同体社会を目指しているわけでもないし、そこに至ることも現実的にありえない。このような非現実的な論理、主張を批判しているだけで、それこそ批判本とかにありがちな全否定、あるいは罵倒をして相手を貶める、といったことを私はまったく意図していません。あくまで敬意をもった批判である、ということはご理解いただきたいです。

 それに斎藤氏の本も他者を罵倒していませんよね。もちろん辛辣な表現はありますが。思想信条が異なるだけで人格的な中傷を行い、それによって自らの主張を是とするような方もいるなかで、そういうレトリックを使わず書いたところに好感は持てますし、このあたりには従来の資本主義批判本との違いを感じました。



共同体社会はユートピアなのか

 ――本書の第4章で<目的を共有することもなく、お互いに知り合うことさえなく全人類の協力を実現できる方法は資本主義を措いてない>と論じています。まさに資本主義の核心をついた一節だと思いました。一方で斎藤氏が提唱するような共同体社会は個人的には息苦しさを覚えたのですが、柿埜さんはどうお考えですか?

 柿埜 斎藤氏が描く未来像はいうなればゴリゴリの体育会系の部活動とその寮での生活を強制される状況だとイメージすれば理解しやすいと思います。個人的にはこういったしんどい社会で暮らしたくないですね(笑)。ご紹介いただいたように、資本主義社会というのはみんなが繋がらない社会であって、それを嫌う人たちが斎藤氏が描いたコミュニティでの生活に憧れるのでしょう。ですが、みんなが繋がっている社会というのはプライバシーのない、窮屈な社会でもあるのです。そういった人びとの関係が密な共同体社会、ひいては昔ながらの田舎暮らしを指して詩人の萩原朔太郎は次のように述べています。

「あの人情に厚い田舎の生活―そこでは隣人と隣人とが親類であり、一個人の不幸や幸運や、行為が、たちまち郷党全体の話題となり、物議となり、そしてまた同情となり、祝福となり、非難となる。…われらはむしろ都会の生活を望むであろう。そこでは隣人と隣人とが互いに知らず、個人の行為は自由であってなんら周囲の監視を蒙らない。げに都会の生活は非人情であり、そしてそれ故に、遥かに奥ゆかしい高貴の道徳に適っている」(『虚妄の正義』(萩原朔太郎著、講談社文芸文庫)より) ※編集部注=WEB上で読みやすいよう一部表記を修正しています。

 つまり、共同体内でああでもない、こうでもないと常に監視され、その社会に根付く因習にみんなが従わなければいけない、そんな日々を過ごすよりも、他者が干渉しない都会暮らしのほうがむしろ道徳的である、と語っているのです。これは原田泰先生も『日本国の原則』(日本経済新聞出版)で紹介されていますが、非常に面白い批評であり、私もこの一節に同意します。

 さらに付言しますと、フランスの古典『ボヴァリー夫人』のストーリーを思い出していただきたいのですが、自由で明るい暮らしを夢見ている少女が俗物的な田舎の因習に縛られた社会で望まない結婚を強いられ、その生活に満足できず不倫に走ったりするものの、周囲には3流の人物しかおらず最終的に破滅する、という内容ですよね。著者のフローベールは「フランス中の田舎でボヴァリー夫人たちが泣いている」 といった趣旨のことを述べています。まさに自由な生活を望む人にとって狭い田舎のコミュニティでの生活が何をもたらすか、ということを今挙げたふたりの文学者は明確に示唆しています。資本主義の下での経済成長とは、こうした因習的な社会からの解放だったのです。市場経済の勃興とともに自由を求めて人々は都市に移動し、閉鎖的で抑圧的な共同体社会は解体されていきました。

 とはいえこういった昔ながらの共同体的生活を恋しく思う人がいるのも理解します。けれども今、我々が暮らしている社会はフローベールの時代以前の地位が低くて権利がない女性たちをはじめ、多くの人たちが旧来の因習に縛られた日々から脱出し、ようやく手に入れた自由な営みである、ということを理解しないとなりません。

 ――まさにリベラルの方たちが訴えている人権意識ですよね。長い年月かけて獲得してきたはずなのに、再び自由のない社会に戻ることを良しとしている。

 柿埜 哲学者のロバート・ノージックは「自分にとってのユートピアは資本主義社会で自由に創ることができる」といったことを書いています。あえて今の社会の枠組みを壊して一個人が思いついた共産主義的ユートピアのなかに無理やり人びとを閉じ込めることを目指すのではなく、資本主義社会のなかで意見に賛同する人たち同士が繋がって自分にとっての理想社会を創ればいい、それだけの話です。