知られざる、二十世紀アメリカ文学史

対談=川本直*島田雅彦

川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(河出書房新社)刊行記念対談

 文芸評論家・川本直さんの初小説、『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』が河出書房新社から、九月二八日に刊行された。本作は川本さんの小説デビュー作にして書下ろし七百枚超、世界文学を大胆に書き換える意欲作である。小説は、二十世紀アメリカ文学とポップカルチャーの時代を駆け抜けた謎多き作家ジュリアン・バトラーとそのパートナーだった作家との愛憎を軸に、ジュリアンの華麗にしてスキャンダラスな生涯をめぐる壮大な回想録となっている。脇を固めるのは、トルーマン・カポーティ、ノーマン・メイラー、ゴア・ヴィダル、テネシー・ウィリアムズといった実在の作家や、アンディ・ウォーホルなどの芸術家たち。ニューヨーク、パリ、イタリアと世界中を巡りながら、愛憎とゴシップ蠢く華やかな舞台が幕を開ける! 本書の刊行を記念して著者の川本直さんと作家の島田雅彦さんに対談をお願いした。(編集部)
≪週刊読書人2021年10月1日号掲載≫


アメリカ文学の裏面史/現実の精巧なフェイク

 島田 そもそも小説は現実の精巧なフェイクを作ることだが、本作は特に架空の小説家を主人公にしたという断り書きがなければ読者を完全に騙すことができたのではないか。最初からフェイクの評伝であると銘打つのは親切過ぎる。もっとも、「真実の生涯」と銘打った時点でこれはフェイクだと疑ってかかるべきでしょう。実在の人物も往々にして経歴詐称から始まって、フェイクの生涯を歩んでいるものだから。

 実際にこの小説の仕様自体がジュリアン・バトラーという架空の作家と二人三脚をやっていた書き手による評伝の翻訳という形で、関連本の翻訳の出版社や作中で主人公が出版した本の版元も実在しますし、そこで非常に華やかに展開される社交相手たる脇役としての作家たちも、もちろん実在する。ここまで精巧なフェイクを作るにはかなりの時間と手間がかかったでしょうね。

 聞きたいことは山ほどあるのですが、まず作中でも言及がありましたようにこのような作家の評伝的な手法のフィクションの前例として、ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』というものもあるし、さらには晩年の『青白い炎』のように、架空の詩人の作品とそれに付けられた膨大な注釈という構成からなる作品もあります。今回川本さんが初小説を書くにあたって、最初からそういう枠組みを考えていたのかどうか。そこからお聞きしましょう。

 川本 それをご説明するために、まずゴア・ヴィダルのことからお話しさせて下さい。ヴィダルはこの小説の登場人物の一人であり、裏の主人公とも言えますが、私がデビューしたのは二〇一一年の「ゴア・ヴィダル会見記」(『新潮』)でした。その年の六月にロサンゼルスのヴィダルにインタビューしたのですが、会いに行く十日程前に、突然、作中の回想録の第一章が頭に浮かびました。私自身、ゴーストライターや無記名の仕事をそれまでにもやっていたことから、二人の作家が共同作業で小説を書いていて片方がゴーストライターで、という構想が一気に湧いてきたのです。

 島田 それでは構想から完成に至るまで十年以上の月日が経過しているわけですね。書き始めたのはいつ頃なのですか?

 川本 初稿のファイル作成データが二〇一一年の六月十九日です。ヴィダルに会ったのが六月三十日で、その前に書き始めたのをはっきり覚えています。

 島田 ではヴィダルに会う前に書き始めて、生きているヴィダルに早くインタビューしないと間に合わないという直感が働いたということなんですね。

 川本 結果的にそうなりました。インタビューはギリギリで間に合いました。ヴィダルは翌年に亡くなりましたから。ですが、本人に会って自分自身の内的危機に直面してしまったんです。彼は小説家というよりは本質的には批評家だとわかってしまった。ここまですべてをメタに見ていたら、自分の足場をも批判し続けて無限後退になってしまう。おこがましい話ですが、ヴィダルを乗り越えるにはどうすればいいか考えました。結論として、ヴィダルの先へ行くためには批評ではなく、自分が彼とはまた違った小説を書かなければならないというところまで行き着きました。現実を直接批評するのではなく、現実を徹底的に使いながらフィクションの世界を書くには小説しかない。小説は批評も内包できますから。

 島田 ロマンスとの対比の中で言えば、小説というのは自己批評が伴うものです。それがなければ小説とは言わない。

 川本 小説にはありとあらゆる批評も盛り込むことができますし。

 島田 小説というジャンルは、本来はそうなんです。多くの人は小説だと思ってロマンスを書いている。基本のパターンを踏襲した型通りの物語を小説と言っている。そこにひりつくような自己批評が入って初めて小説と呼ばれる。だからヴィダルも大岡昇平も大批評家ですし、毒舌家です。現代でも、『服従』を書いたミシェル・ウエルベックのような作家もいるわけです。

 作品中のどのエピソードもちゃんと裏が取れているんだと思うんだけれど、この作品は非常に多彩なエピソードを非常に豊かな細部でもって四〇年代から六〇年代にハチャメチャな作家ライフを送っていた人々の姿というのが生き生きと描かれていて、それ自体が片付けられない人の家みたいな状態だったんですけれど、文芸批評家が作家のリアル・ライフというものを取材して、時代の雰囲気とか人間関係の変化といったものが全部裏付けされているので、一見混沌として見えるけれどスムースに読めました。これは小説の形をとっているけれど、潜在的にアメリカ文学史ですしね。

 川本 そうです。同性愛文学とアナーキーな作家たちの文学史なんです。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます




☆かわもと・なお=二〇一一年「ゴア・ヴィダル会見記」(「新潮」)を発表しデビュー。文芸評論とノンフィクションを手掛ける。著書に『「男の娘」たち』、共編著に『吉田健一ふたたび』。本書が初の小説となる。一九八〇年生。

☆しまだ・まさひこ=作家。一九八三年、大学在学中に『海燕』掲載の『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。『夢遊王国のための音楽』(野間文芸新人賞)、『彼岸先生』(泉鏡花文学賞)、『退廃姉妹』(伊藤整文学賞)、『虚人の星』(毎日出版文化賞)、『君が異端だった頃』(読売文学賞)などを受賞。『僕は模造人間』『彗星の住人』『徒然王子』『カタストロフ・マニア』『スノードロップ』など著書多数。一九六一年生。