生きること、死ぬこと、声を上げること

対談=笹川陽平×髙山文彦

『地球を駆ける 世界のハンセン病の現場から』 (工作舎) 刊行をめぐって



 日本財団会長の笹川陽平氏が、『地球を駆ける 世界のハンセン病の現場から』(工作舎)を上梓した。ハンセン病の制圧と、差別撤廃に四〇年以上取り組んでいる笹川氏は、二〇〇一年に、WHOハンセン病制圧大使に就任した。九〇〇頁を超える本書に収められているのは、就任から現在までの活動の記録である。
 
 ハンセン病の歴史や今後をめぐり、作家の髙山文彦氏と対談をお願いした。(編集部)


現場と国際社会/〈今〉を記録する

 笹川 私は日本財団で長年、ハンセン病の問題に取り組んできました。しかし私は、ハンセン病の研究者でも、治療ができる医者でもありません。この本に記録されているのは、いわば〈素人〉である私が取り組んだ、ハンセン病の制圧と差別撤廃の活動です。

 長い苦難の歴史を通じ、日本ではハンセン病は終焉に向かっています。回復者は一〇〇〇人弱いらっしゃいますが、新規感染者は〇人です。振り返ると、一九九六年にいわゆる隔離政策であった「らい予防法」が撤廃され、二〇〇一年には国家賠償請求が認められました。しかし、世界では現在進行形の問題です。多剤併用療法(MDT)が確立され、ハンセン病は完全に治る病気となりました。回復者や治療中の患者から感染する可能性はなく、「不治の病」「遺伝病」「神からの罰」といった認識も、すべて誤りです。しかし人々の誤解や無関心のため、今なお患者やその家族は、厳しい差別や排除の対象となっています。

 この現状を打破するには、医療面からの制圧活動だけでなく、社会的な差別の問題を国際的に解決する必要があります。医療支援として、一九九五年から一九九九年までの五年間、日本財団はWHOを通して、MDTを世界に無料供給しました。この取り組みによって、各国でのハンセン病患者も大幅に減少しました。しかし、それだけでは人々の偏見の目は変わらない。ハンセン病に関する活動のために、私は今まで一二二ヵ国、五五二回ほど海外に出向きました。その中には、インドやネパール、コンゴやカメルーンのジャングル奥地だけでなく、WHOや国連での活動も含まれています。現場と国際社会、両方への働きかけがなければ、ハンセン病を取り巻く問題は解決しないのです。

 そうした取り組みを記した本書を上梓したのは、二つの理由があります。一つは、私が行ってきた活動を、ハンセン病以外の国際問題の解決にも役立たせてほしいという想い。もう一つは三〇年後、五〇年後を生きる後世の人々に、こういう時代もあったのだと伝えたいという想いです。これから世の中がどうなっていくか分かりませんが、人間が犯してしまった過ちから目を逸らしてはいけません。今という時代を記憶に残すためにも、できるだけたくさんの写真を挿入させていただきました。

 髙山 笹川さんは四〇年以上、ハンセン病の制圧活動を続けられています。その集大成のような本だと感じました。未来のために写真を多く掲載することは、個人的に大変重要なことだと考えています。一九九〇年前後、『火花 北条民雄の生涯』の執筆のために、北条民雄のことを調査していました。その際、日本にあるハンセン病の療養所跡地や資料館に何度も足を運びました。しかし、当時すでに見ることができなくなっていた資料や写真がたくさんあった。公開するのは憚られるようなものが多かったのではないかと、推察しています。ですが、いくら凄まじい光景が写っているからといって、処分するのは間違っている。そういう風にして隠されてしまったものは、何かきっかけがない限り、そのまま葬られてしまうからです。

 北条の取材をして気がついたのですが、彼の文章でさえ、私が書くまでは感情的に否定する患者が多かった。北条はハンセン病を発症し隔離された後に、川端康成の協力を得て本を出しています。ハンセン病患者の悲しみや苦労、患者が見たであろう風景、そして本人たちが書いてほしくなかったであろうことまで、北条は書きました。決して侮蔑した書き方ではなく、ハンセン病を通じた世界から、人間とは、命とは何かを訴えています。闇に葬っていいものではありません。

 笹川 北条の作品を刊行するために、川端は相当な努力をしたと思います。送られてきた原稿を消毒したという噂もありますが、当時の時代背景を踏まえると、川端の努力は本当に素晴らしいものです。実は、川端は私の父である笹川良一と同級生でもありました。おそらく二人で、ハンセン病の問題について話し合ったこともあったでしょう。髙山さんは北条民雄について書き、私は父親が川端康成と同級生だった。ハンセン病を通して、髙山さんと私が繫がることには不思議な縁を感じます。

 ハンセン病に関する歴史を消す気はないにしても、人々の脳裏から自然に消えていく。これは、あってはならないことです。残念ながら、人間は正しいことばかりする生き物ではない。人類が引き起こした残酷な出来事も、直視しなければいけません。先人たちがいかに努力して今の時代を作り上げたのか、未来の人が知るのは大切なことです。


患者が残した記録/日本と海外の違いについて

 髙山 『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』の執筆に際し、笹川さんにお願いして二年ほど同行取材させていただきました。二〇ヵ国ほどご一緒させていただき、各国の療養所やハンセン病者のコロニーを訪ねました。ブラジルで出会った看護師のことを、よく覚えています。彼女がいたのは、貧民街を抜けた先の丘の上にあるハンセン病者のコロニーでした。定年で引退が近かった彼女は、昔のことから最近のことまで記録なさってましたね。これは、珍しい例です。医療従事者を含め、ハンセン病について書かれた資料は、日本以外の国には本当に少ない。識字能力や教育の面もあるでしょうが、海外と日本ではそもそも差別の種類が違う気がします。

 笹川 作品を書いた、焼き物を焼いた、絵を描いた。そんなハンセン病患者がいたのは、世界でも日本だけです。患者自身が残した記録というのは、海外にはほとんどない。最近、世界中のハンセン病に関わる歴史の保存に取り組んでいます。ですが多くの場合、医師や看護師、患者の面倒を見た牧師の記録が残っているだけです。

 髙山さんがご指摘の通り、海外には教育レベルや宗教、カーストの問題もある。宗教的被差別民やハンセン病を患った人々は、多くが人間の寄り付かない場所で、肩を寄せあって生活しているんですね。例えば、墓地ではないけれど人が埋められていたところや、人里離れた僻地です。当然ながら、水も電気もありません。そういった場所で暮らす人々は、作品を書くどころか文字さえ読むことが難しい。少なくとも、「ハンセン病文学全集」などが存在するのは日本だけです。

 髙山 話には聞いていましたが、実際そういうところに行ったときは非常に驚きました。ですが、希望を感じた村もありました。インドのある村で、ハンセン病患者に会ったときです。みんなで機織りをして、子どもたちが糸の手巻きをしていました。物乞いに出ずに、自立して商いに励んでいる。その光景はとても印象的でした。


人々の意識と自己差別の問題


 髙山 ハンセン病の制圧活動だけでなく、差別問題に関する活動も、笹川さんは精力的に行われています。国連では、差別撤廃の決議を成立させました。そもそも、国連に話を聞いてもらうだけで大変な道のりだったと思います。世間が思うほど、生易しいことではなかったでしょう。差別意識は、人間の心から最も去り難いものの一つです。笹川さんに二年あまり同行し、身に染みて実感しました。

 笹川 国連の人権理事会には、世界を代表する人権問題の専門家たちがいます。理事会が「人権委員会」という名称だった二〇〇三年、ハンセン病に関する差別や偏見の悲惨な現状を、人権高等弁務官代理に訴えました。すると、彼はこう言ったんです。「これほど大きな人権問題が存在することを初めて知った。人権委員会ができてから、ハンセン病の差別については一度も議題に上がったことがなかった」。ハンセン病のように、世界各国に様々な差別法が存在した病は、他にありません。たとえば結核が治った人のことを、元結核患者なんて言いませんよね。なぜハンセン病だけが元患者や回復者と呼ばれ、今なお差別が行われているのか。北京オリンピックではハンセン病患者の入国が禁止され、人を救う立場であるローマ教皇が「小児性愛はハンセン病みたいなものだ」という発言をしたことがあります。教皇の発言についてはバチカンまで行って、「ハンセン病を悪い例えに使わないでください」と直訴しました。しかし、そういう世界の状況を、人権の専門家たちは一切知らなかった。大変な驚きでした。

 ハンセン病は、旧約聖書に描かれる時代から差別を受け続けてきた歴史があります。だから多くの人にとって理屈外の問題という認識が、無意識のうちにあるのかもしれません。エイズであれば、エリザベス・テイラーをはじめ、世の中に伝播力のある人たちが立ち上がり、問題提起を行いました。ですがハンセン病だけは、率先して訴えを行うリーダーが、世界中のどこにもいなかった。さらに悲劇的なのは、患者自身が「自分は神からの罰を受けて差別される人間だ」と思っていることです。ハンセン病者である自分が声を上げると、また新たな差別を生むかもしれない。仲間たちが、さらに苦難の道を歩むことになるかもしれない。だから、沈黙する以外に方法がない。多くの方が、そのような自己差別に陥ってしまっているんですね。

 髙山 ハンセン病は、死に直結する病ではありません。しかし治療できなければ、人間としての姿かたちが次第に変形していく。社会参加も許されない。死よりも厳しい状態に置かれているといっても、過言ではない気がします。そんな状況を、社会どころか国も法律として認めてきました。ハンセン病の歴史を振り返ると、人間の残酷さを思い知らされます。

 笹川さんと各国を巡って、実感したことがあります。それは、患者たちの明るさと、優しさです。特に、人間が本来持っているはずの優しさは、患者に教えてもらいました。

 笹川 おっしゃる通りです。ハンセン病患者の優しさは、キューバ革命などを主導したチェ・ゲバラも次のように言っています。「何かのきっかけで僕らがハンセン病に真剣に取り組むようなことになるとしたら、その何かとは、どこへいっても患者が示すあの優しさである」。この言葉は、本の帯にも引用させていただきました。ハンセン病の差別が深刻だった時代に、ペルーにある療養所で、ゲバラは患者と交流している。本文でも言及していますが、その映像も残っています。


共に手を取り合うために

 笹川 なぜ同じ人間の脳内には、優しさと憎悪が共存しているのか。ハンセン病制圧活動のために各国を回ったり、日本の政府代表としてミャンマーの紛争解決のために現地に行くたび、いつも考えます。数多くの生き物の中で、理性を持っているのは人間だけです。ですが、その理性を持った人間だけが、想像を絶する残酷なことを行う。現実から目を逸らしたり、目の前で苦しむ人に対して、見て見ぬふりをして生活できる感覚は、私にはどうしても理解できません。

 髙山 ハンセン病に関しては、優しさからは程遠い対応を、かつての日本も行ってしまいました。しかし、地域共同体の視点で見てみると、優しさの伝統がある国だったと思えます。たとえば、四国八十八箇所巡りや熊野の霊地巡りをした巡礼者の中には、ハンセン病患者が大勢いました。その巡礼地の周辺に住んでいた民衆が、ハンセン病の巡礼者たちを差別した話は、あまり聞きません。四国では、〈いざり車〉の話を聞きました。病が進行し、いよいよ動けなくなったら、四輪滑車付きの小さな木箱をつくって、縄を繫げておく。患者は、その中に入るんですね。ご飯を恵んでくれる人もいたし、やって来た巡礼者が縄を引いて、次の霊場まで運んでくれた。そうして亡くなった際には、お寺で荼毘に付される。ハンセン病患者が自らコミュニティを作って、社会的な生活を営むことはできなかったと思いますが、地域共同体の中で繫がりを持つことはできた。これは、日本だけではないでしょうか。

 笹川 日本人は農耕民族なので、コミュニティで生きてきました。自助と公助の間に、お互いを助け合う共助の精神があったのだと思います。良き伝統でしたが、ハンセン病に対しては国家の法律のために、その伝統が発揮されない不幸な形になってしまった。

 日本財団で仕事を行ううちに、考え直したことがあります。自分の存在についてです。なぜ私は日本に、笹川良一という男のもとに生まれたのか。なぜ、インドのアウトカーストにあるハンセン病の家庭に生まれなかったのか。自分がなぜ〈ここ〉に生まれたのか、存在というものの不思議さを常に感じます。若い頃から、死や生き方について考えてきましたが、悩みを持って死ぬより、よく生きたと思える死に方を私はしたい。その気持ちがあったからこそ、長い間活動を続けられているのだと思います。

 髙山 私には忘れられないシーンがあります。キリバスの診療所に、年若い母親が一六歳の娘さんを連れてやって来ましたね。その場でハンセン病と診断され、私たちの目の前で娘さんは薬を飲みました。みんなから拍手がわき起こりました。笹川さんが来ると聞いて、母親は会いに来たのです。太平洋の真ん中のあんな小さな島にも、ハンセン病についての知識が正しく広まっていた。長年にわたる制圧活動の成果を実感しました。

 北条民雄には、「生存」という言葉の意味を教えてもらいました。「なんにもできなくても、ただ生きている。それだけで尊いことなのだ」。そんなことを、彼は日記に書いています。これは、私たちの実存を揺さぶります。患者の誰もが「生存することの意味」を、世間と隔離されながら考えていたと思います。キリバスの少女の不安そうな笑顔が、朗らかな笑顔に変わるのを見たとき、「生存」から「生きる」ことへとスイッチが切り替わったように思いました。

 笹川 ハンセン病を患い、三八歳で亡くなった明石海人という歌人がいます。病気の進行によって失明した彼は、有名な言葉を残している。「深海の魚族のように自らが燃えなければ、何処にも光がない」。最初にお話ししましたが、日本は海外に比べて知的レベルが高かったので、ハンセン病患者がペンや作品を通して戦うことができました。ですが海外では、戦うために必要な言葉すら持てなかった。その状況を変えるため、最近は患者や回復者、その家族の組織化を図っています。ハンセン病患者や回復者たちの境遇を改善するには、彼ら自身が声を上げることが必要不可欠です。

 一人でも多くの患者が自己差別から立ち上がり、「ハンセン病であっても人間である」とアピールする手伝いを、日本財団はこれからも行っていきたいと思います。今後、患者や回復者たちの意識も急速に変わっていくでしょう。ハンセン病への取り組みは、新たな段階にさらに一歩進んだ気がしています。(おわり)
≪週刊読書人2021年10月8日号掲載≫

★ささかわ・ようへい=日本財団会長。WHOハンセン病制圧大使・日本政府ハンセン病人権啓発大使・ミャンマー国民和解担当日本政府代表ほか。著書に『残心 世界のハンセン病を制圧する』など。一九三九年生。
★たかやま・ふみひこ=作家。著書に『火花』(大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞)『「少年A」14歳の肖像』『生き抜け、その日のために』『宿命の戦記』など。一九五八年生。