パリという都市に交差する多様な力

対談=対談=福井憲彦・陣内秀信

福井憲彦著『物語 パリの歴史』(中公新書)刊行記念



 ヨーロッパ史、フランス史が専門の福井憲彦氏が『物語パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年』(中公新書)を上梓した。「芸術と文化」という観点からパリの歴史を詳細に辿る魅力的な一冊である。刊行を機に、イタリア建築史、都市史が専門の陣内秀信氏と対談していただいた。 (編集部)
≪週刊読書人2021年10月15日号掲載≫


パリの自然条件と原風景 大改造による区画整理

 陣内 パリにとってセーヌ川が重要なのに対して、東京なら隅田川、ロンドンならテムズ川が重要な川としてある。人間が道路や建築を作り、改造し、都市を立派にしていったわけですが、そのスタートラインには自然の条件があり、それは歴史の重なりのいわば基層部分ですよね。パリにいると、このことを忘れちゃうのですが、実は自然の条件が重要だったな、と再認識しました。

 パリの地下に石灰質の岩盤があって、石材が豊富にあったと書かれています。イタリアでも、たとえばナポリがそうです。ギリシア人が石材を得るために掘って、その穴の上に都市を作っているんですよね。いまそこを訪れると、地下空間をタイムスリップできる。石材が豊富な場所に都市ができてくるのは、理にかなっているということがわかります。

 パリでは、東西を流れるセーヌ川沿いに、シテ島を中心に都市が作られてきた。パリ北部には、三世紀半ばに司教のディオニシウスが殉教したというモンマルトルの丘がある。それから南側には、伝説的な聖女の名を冠したサント・ジュヌヴィエーヴの丘がある。そのゆかりの地に教会やパンテオンができる。当時のパリは市域が小さかったようですが、いずれにしても、丘や川がはっきり見える。セーヌ川を軸にシテ島を中心にして、自然条件をうまく活かしながら、パリの最初の骨格ができたように思います。福井さんがパリを歩いていても、そう感じられますか。

 福井 そうですね。ただ、相当歩かないと見えてこないかな。一九世紀のセーヌ県知事オスマンによるパリ大改造のときに、中心部では丘を削ったりして平準化しました。オペラ座大通りの例を挙げましたが、細い道が入り組んでいた地区を、傾斜を削って区画整理し、ルーヴルやパレ・ロワイヤルに通じる中核地区に再開発しました。その真ん中あたりに、風車通りという名前の通りがあります。昔はそこも風車のある丘でしたが、削って大きな道路を通すことで一挙に変えてしまう。そのように、大改造は乱暴といえば乱暴なことをしたわけです。そのため、パリ中心部はかなり平らになっていますね。

 陣内 でこぼこで、小高い丘を反映して都市ができていたけれども、そこを削って、人間の力でパリという大都市空間を作っていったということですね。

 福井さんがパリの原風景とその意味を詳しく書いてくださって、とても新鮮でした。キリスト教が中世以降に広がると、人は山や川に聖なる意味を見出さなくなっていきます。でも考えてみれば、イエス・キリストが十字架の刑に処せられたのは、エルサレムのゴルゴタの丘でした。丘というものにも、神聖な意味があったはずです。

 福井 おそらくそうでしょう。中世には、パリの街中から見上げても、いまのような五階、六階建ての建物があったわけではありません。北の向こう側に、小高い丘がいつも見えていたと思います。その手前の、シャルル五世の城壁の外側は、湿地帯がずっと続いていました。陣内さんのおっしゃったように、パリの原風景のようなものがあったのかもしれません。

 陣内 ヨーロッパの多くの都市は中世にできていて、その骨格が今にいたるまで受け継がれているところがあります。ローマは例外ですが、フィレンツェ、ヴェネツィア、ベルギーやドイツの都市もそうです。パリの場合は、一二世紀に骨格ができて、一八、一九世紀に拡大再編されるという印象が強いですね。

 そのなかでも国王と都市の関係がフランス独特で、パリの自治のあり方に興味を引かれます。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★ふくい・のりひこ=学習院大学名誉教授、フランス史、西洋近現代史。一九四六年生。

★じんない・ひでのぶ=法政大学特任教授、イタリア建築史、都市史。一九四七年生。