継承されるシスターフッドの灯

柚木麻子インタビュー

『らんたん』(小学館)刊行を機に



 作家の柚木麻子さんが、二年半ぶりとなる新刊『らんたん』を小学館より上梓した。物語の中心人物は、柚木さんの母校・恵泉女学園を創立した河井道さんと、彼女と姉妹関係にあった一色ゆりさんである。五年の構想期間を経て執筆された本書は、彼女たちが駆け抜けた明治、大正、昭和の女子学校教育の黎明期を描く〈女子大河小説〉。刊行を機に、柚木さんにお話を伺った。(編集部)
≪週刊読書人2021年11月26日号掲載≫


一色邸の謎/道先生人たらし説について

 ――本作の主人公は、柚木さんの母校でもある恵泉女学園の創立者である河井道さんと、彼女とシスターフッドの契りを結び、支え続けた一色ゆりさんです。最初に、執筆のきっかけをお伺いします。

 柚木 この本は、五年間の構想期間を経て執筆しました。取材や資料集めの期間が約三年で、執筆には二年弱かけたと思います。きっかけとなったのは、二〇一八年から『週刊朝日』に連載した小説『マジカルグランマ』です。編集者さんから、高齢女性を主人公にしてくださいと言われ、七五歳の元女優が活躍する話を書こうと大枠は決めていました。普段からあまりプロットを立てずに執筆するので、初めての週刊誌連載でしたが、なんとかなるだろうと思っていたんです。ところが私自身、ちょうど出産を終えたばかりということもあって、しばらく体調が戻りませんでした。母乳が出すぎたり貧血だったりと、マイナートラブルが激しくて、頭が働かなかった。どうしようかと悩んでいたときに、七五歳も過ぎる年齢になれば、外出が億劫になるのではないかと、ふと思ったんですね。家の中だけで主人公を活躍させれば、取材も最小限に抑えられます。そこで、文化的な価値はあるけれど売れないお屋敷に住む女性を主人公にした『マジカルグランマ』の連載を開始しました。

 その舞台となるお屋敷のモデルにしたのが、恵泉女学園のすぐそばに建っていた一色邸です。私と同世代の恵泉生であれば誰でも知っている有名な豪邸で、昭和初期に建てられたとは思えない、ゴシック風の素敵な洋館でした。『マジカルグランマ』を書こうと思ったときには、すでに解体されていたのですが、恵泉の史料室にいって図面はないかと聞いたら、一色家の方を紹介されました。図面を見る限り、一色邸は本当に変わった設計の建物でした。台所が大きかったり、おかしな場所に部屋があったり、謎の通路や茶室まであった。どういうつもりで建てた家なのだろうと不思議に思っていると、私が恵泉生だったとき、聖書の授業を担当していた一色ゆりさんの娘・義子さんが、次のように教えてくれました。

 そもそも一色邸は、義子さんのご両親である一色乕児さんとゆりさんが、河井道先生を支えるために、学校の補助的施設の役目も果たせる家として建てたそうです。留学生たちのお料理教室や、学校に寄付をしてくれた人の接待のために使われていました。特に戦後は、ゲストハウスとして位置づけることで、「ここは宿泊施設だ」と言ってGHQの接収を避けた。何かある度に増改築を繰り返しているので、一色邸は不思議な構造になっていったそうです。

 その話を聞いて、私はものすごく疑問に思いました。いくら仲が良かったとはいえ、道先生を支えるための家を、他人の夫婦が建てるとはいったいどういうことなのだろう。また、恵泉女学園は無一文の状態で創立したにもかかわらず、道先生と親しかった人たちの寄付によって、どんどん大きくなっていった経緯があります。他人にそこまで思わせる河井道とは、どんな人だったのか。その生涯を知りたいと思い調べ始めたのが、きっかけです。

 ――恵泉生だったときから、道さんに関心を寄せていたのでしょうか。

 柚木 刊行後、嬉しいことに恵泉OGから、たくさんの感想をいただいています。多くの方が仰るのが、「道先生について、全く知らなかった」ということです。実は私も同じで、「素晴らしい人だったのだろう」くらいの印象しか、執筆前は持っていませんでした。今はどうなっているか分かりませんが、私が恵泉の生徒だった頃、道先生について詳しく教えられた記憶はあまりないんですよね。曰く、平和を愛するクリスチャンだった。曰く、戦争を含む数々の危機に見舞われた恵泉が学校を存続できたのは、彼女の信仰と人格のおかげである。そんな感じだったので、生徒としては右から左に抜けていく話でした(笑)。

 ただ、一色邸を調べていると、自然と道先生の断片的な情報が集まってきました。わずかな情報の中に、新渡戸稲造から津田梅子、有島武郎、村岡花子に柳原白蓮、広岡浅子まで、有名人が次々と登場する。何でこんな人と関係が⁉と驚く人物ばかりで、しかも多くが道先生に何かしらの手助けをしているんですね。そこで私は、一つの仮説を立てました。道先生は偉人ではなく、人たらしだったのではないか。「道先生人たらし説」を証明すべく、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて、再び母校の史料室に通い始めました。非常に助かったのは、OGの子どもだからと面白がった先生たちが、面倒を見てくれたことです。普通の取材先では子どもが泣くとどうしても気を遣ってしまうのですが、母校では集中して資料を探すことができました。おかげで、道先生のことだけでなく、恵泉生だったとき謎に思っていた数々の事柄も解けていきました。学校の図書館にある大きくて古い謎の長持ちは、篤姫のところから来た貴重なものだったり、剝製のワニは戦前、台湾から連れてこられた。おそらくは、白洲次郎の義理の父が連れてきたのではないかと、噂されていたり……。昔、疑問に思っていたことが徐々に明らかになっていくのは、今までにない興味深い体験でした。

 ――ちょうど、コロナ禍の中での執筆になったと思います。

 柚木 私は人に会うのが好きなので、コロナが流行る前にはいろんな場所に取材をお願いしていました。津田塾大学に取材申し込みをして、資料を山のように見せてもらったり、大学で講義を受けたりしていたんです。北海道で授賞式が行われる氷室冴子文学賞の選考委員をしているので、関係者にお願いして、スミス女学校――今の北星学園大学の理事長を紹介してもらったこともあります。普段はしないアカデミックな経験を楽しんでいたのですが、もともと肺が弱いこともあって、コロナが流行り始めてからは、ほとんど外出しなくなりました。津田梅子と道先生が留学したアメリカのブリンマー大学への取材もできなくなり、頼みの綱だった恵泉の史料室も閉まってしまった。執筆を諦めかけたこともありました。

 とにかく、家でできることはないか。考えるうちに、あることに気がつきました。道先生とゆりさん以外の主要な登場人物たちは、みんな歴史上の著名人である。つまり、ネットでいくらでも資料が手に入るのではないか。実際そうだったので、主人公ふたり以外を先に調べ、年表を作成しました。また、コロナ禍だったからこそ、道先生を知るOGたちに詳細な電話取材をすることができました。道先生のことを知っている八〇代、九〇代のOGの皆さんは本当に元気で、家にいないことが多いんです。でも、そんなOGたちが常に在宅している時期だったので、学校の行事や道先生の授業、戦争中はどんな感じだったのか、密に取材させてもらいました。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★ゆずき・あさこ=作家。著書に『終点のあの子』『嘆きの美女』『ナイルパーチの女子会』『BUTTER』『さらさら流る』『マジカルグランマ』など。一九八一年生。