多種とコ・デザインする未来
マルチスピーシーズの社会実装

対談=奥野克巳×近藤祉秋×川地真史



『モア・ザン・ヒューマン』『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』(以文社)、『食う、食われる、食いあう マルチスピーシーズ民族誌の思考』(青土社)が刊行となり、雑誌『たぐい』(亜紀書房)はvol.4をもって完結した。文化人類学は人間へ向けてきた視点をマルチスピーシーズ(多種)へ転換し、新たに世界を思考する学問として、一つの大きな基盤を構築しつつある。二〇二二年の新年号ではマルチスピーシーズを起点に、文化人類学者の奥野克巳氏と近藤祉秋氏、Deep Care Lab代表理事の川地真史氏に鼎談をお願いし、刺激的なお話を伺った。(編集部)
≪週刊読書人2021年12月31日号掲載≫


あらゆるいのちへ、三つのマルチスピーシーズ

 奥野 この一〇〇年程の間、フィールドワークをし、参与観察した内容を民族誌として綴るという積み重ねの中で、文化人類学が発展してきました。その流れの上に、やや毛色の異なる、多種の文化人類学が立ち上がり、とりわけこの十年ぐらい盛んになっています。人間をこれまで探究してきた学問である人類学が、多種あるいは複数種へ研究領域を拡張したものをマルチスピーシーズ人類学と呼んでいますが、その基本にあるのはやはり民族誌です。今回刊行された三冊は、文化人類学者とその周辺の人文学者らが、これまでの研究を発表し、あるいはインタビューの形で発言し、その発言を元に座談会を行った成果ということになります。

 一方、マルチスピーシーズ人類学の立ち上げにかかわった一人に、エベン・カークセイというバイオアートに関心をもつ人類学者がいますが、彼の関心をベースに同時並行的に発展したのが、アートやパフォーマンスと連携するマルチスピーシーズ人類学でした。さらに人類学分野のほかにも、マルチスピーシーズを語る人たちがいることを、ここ数年感じていましたが、それが明確になったのが、雑誌『WIRED(ワイアード)』の川地さんの記事を読んだときでした。

 そこには大きく二つのことが書かれています。一つには、社会実装を推し進めるようなマルチスピーシーズ。もう一つは、多種との共生をアート的なものとして表現するものです。その記事を読んで、今のところマルチスピーシーズ研究の広がりには、三つの面があると言えるのではないかと考えました。一つには民族誌の強みをもつマルチスピーシーズ人類学、それからアートやパフォーマンスと連携するマルチスピーシーズ人類学、そして川地さんが試みているような社会実装を積極的に推し進めるマルチスピーシーズの動きです。

 今日は『食う、食われる、食いあう』『モア・ザン・ヒューマン』の共編者で、マルチスピーシーズ人類学の分野で挑戦的な試みを続けている近藤祉秋さんにも参加していただいて、現在どのような広がりの中で、マルチスピーシーズ研究と実践がなされているのか、話していきたいと思っています。まずは川地さんから、現在マルチスピーシーズ的な思想を社会実装する、どのような試みがなされているのか、お話いただけますか。

 川地 社団法人DeepCare Labは二〇二一年に立ち上げたばかりですが、「あらゆるいのちへの、ケアする想像力を。」をミッションに掲げています。「私」という存在は、この世界にどのような関係性の下に成り立っているのか。呼吸をするためにも植物が必要であるとか、体内にはものすごい数の微生物がいて、食物の消化を手助けしたり、外敵を入れないように闘っているとか、今消費している電力が未来の子どもたちに影響を与えるのだとか。そういう繫がりの中で、否応なく依存しながら生きている「私」であることを、いかにアップデートして広く伝えていけるか。そういうことを念頭に置いて活動しています。

 未来の子どもや二酸化炭素、微生物など、目にとめにくい存在の声に耳を傾けるためには、イマジネーションがキーワードになると考えています。そうした相互依存の繫がりを元にした社会実装を目指すには、とにかく何らかの「形」を生むことが重要だとも思っています。僕自身のバックグラウンドは「デザイン」です。

 デザインの世界では今、「多元的デザイン」ということが言われています。それは既存のデザインが、二元論的な世界観の上にあったことの裏返しです。ごく簡単に言うと、問題に対する解決策の提示が、既存のデザインの目指したものでした。つまりデザイナーである主体が対象に働きかけ、解決策を提供するという、一方的な関係の上に成り立つデザインです。でも実際、問題というものは、簡単には切り分けられない、依存関係の網の中で起こってくるものですよね。

 さらに言えば、自分が形作ったものに影響を受けることもある。アン=マリー・ウィルスは、「私たちが世界をデザインする一方で、世界は逆に私たちをデザインしている」と語っています。わかりやすい例では、旧石器時代の石包丁の形に、人間の手が変化していったとか、高速道路という人工物が人を苛立たせ、その感性を変えてしまったとか。今、そうした双方向的な存在論的デザインへの理解が生まれてきているのです。

 もう一つ重要なのは、社会実装やデザインの在り方が、イデオロギーや世界観を強化する特性をもっているということです。何かしらの特権性や価値観に基づいて現状を解釈し、そこから望ましい未来を描いて介入するというのが、単純化したこれまでのデザインの営みでした。そのシンプルな例を挙げてみれば、フィンランドの小麦メーカーのパッケージのモデルは、長年、白人ブロンドの女性だったとか。赤いランドセルを女の子が背負うという図一つによっても、無意識の前提が物質化されることで、人の認知に影響を与え、世界の見方が強化されます。そうした政治性に無自覚なデザインのあり方への反省が、今起こってきているのです。

 そこから、一人のデザイナーがデザインをするのではなく、人間と非人間の集合体がデザインをしていくということが思考され始めました。デザイナーが唯一の行為主体であるという、これまでの根本が問い直され、デザイナーを数種の集いと見なす、そういう考えが広がりつつあります。マルチスピーシーズということが、今のように語られるようになる前から、こうした動きはありましたが、そこにはフランスの人類学者ブルーノ・ラトゥールの影響がにじんでいると思います。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★おくの・かつみ=立教大学異文化コミュニケーション学部教授・文化人類学・ボルネオ島狩猟民研究。著書に『絡まり合う生命 人間を超えた人類学』、共訳書に『人類学とは何か』(ティム・インゴルド)など。

★こんどう・しあき=神戸大学大学院国際文化学研究科講師・文化人類学、アラスカ先住民研究。

★かわち・まさふみ=一般社団法人Deep Care Lab代表理事、公共とデザイン共同代表。