〈生〉と〈死〉を描きつづけた作家・白土三平
――『カムイ(外)伝』は何を追究したのか

追悼・白土三平

寄稿=小松美彦

 二〇二一年一〇月二七日、朝刊を開くと、「白土三平さん死去」の見出しが目に飛び込んできた。衝撃が走った。そして、二〇年間にわたって中断したままの『カムイ伝』のことが案じられ、私は不謹慎にも、「まだ岡本鉄二がいるではないか」と己をなだめた。しかし、読み進めると、作画担当で実弟の氏も、兄の逝去の四日後に不帰の人となっていた。かの雄編再開の夢は完全に絶たれたのである。

 私が白土作品に出会ったのは一九六三年、小学二年生の秋であった。大伯母に連れられて遠方の医院に向かうおり、池袋駅山手線ホームの売店で買ってもらった『週刊少年サンデー』にそれは出ていた。『スガルの死』という短編である。

 主人公は抜け忍のくノ一、スガル。彼女は大湿原地帯にある村落で農民の妻に身をやつしていた。そんなある日、追手の気配を察知し、「おそれ沼」で迎え撃つ。そして奮闘むなしく多勢に屈するが、この地に隠れ住んでいた意味がいずれわかるとの言葉を残す。それから二年、スガルを倒したはずの追忍たちは次々と悶え死に、最後の一人が彼女の予言の真意を知ることとなる。沼には寄生虫を宿した貝が繁殖しており、彼らは戦いのさなかにたかられ、それと知らぬままゆっくりと冒されていったのである。死しても術は続く。

 私はスガル最後のこの術に驚愕した。日本住血吸虫病と中間宿主ミヤイリ貝の恐ろしさも知った。そして何よりも瞼に焼きついたのは、こちらを凝視したまま水面に浮かぶスガルの死に顔であった。その頬から喉には小さな巻き貝が何匹も付着していた。『伊賀の影丸』と『おそ松くん』目当てで『少年サンデー』をせがんだ私にとって、白土作品との出会いとは、漫画における「暗さ」との出会いなのであった。

 爾来、同誌に『イシミツ』(※本紙では漢字表記)や『カムイ外伝』などが断続的に載ると、目を背けてはならぬと思い、必ず読んだ。作品に応じて暗さの感覚は切なさや虚しさや遣る瀬なさのようなものへと〝昇華〟したが、一貫して描かれているのは個々具体的な死であった。

 そうした死が支配権力の狡知と明確に結びつけられたのは、六五年から『週刊少年マガジン』で連載された『ワタリ 第一部・第三の忍者』においてである。舞台は伊賀の里。そこでは二つの勢力が相争い殺し合い、いずれも「死の掟」による謎の粛清におののいていた。物語の最後、双方の真の支配者が実は同一人物であったことが明らかになる。支配される者を分断し対立させて支配する、まことに巧妙な遣り口である。その着想が村山知義『忍びの者』に負っていることを知ったのはずっと後のことであるが、『ワタリ』の映画版(『サイボーグ009』との二本立て)を観たことも手伝って、子どもながらに強烈な印象として残り、今日に至っている。

 その時期、月刊誌『ガロ』誌上で『カムイ伝 第一部』は既に連載されていたが、私はまったく知らなかった。単行本を友人宅で断片的に読んだのは高校入学後、漫画喫茶に通って完読したのは七〇年代半ばの受験浪人時代であった。ただし、それ以前に『忍者武芸帳影丸伝』は通読しており、子ども時分に横山光輝『伊賀の影丸』が大好きだった私は、二人の影丸の根本相違を意識していたつもりではあったが、呉智英によるパロディー辞典「集沫辞解」の「影丸」の項目説明には、ぐうの音も出なかった。

「①影一族の影丸。白土三平の代表的劇画の主人公。稀代の忍者影丸が、権力者に対する叛乱を指揮。②伊賀の影丸。横山光輝の代表的まんがの主人公。体制ベッタリ忍者影丸が、叛乱者に対する弾圧を指揮」(『終末から』第三号所収、一九七三年)。

 さて、『忍者武芸帳』も『カムイ伝』も、唯物史観漫画だと評されてきた。浪人時代に発見したところでは、『朝日ジャーナル』のたしか六二年か六三年の投書欄で、京都大学大学院生の竹本信宏(後の滝田修)も、真の唯物史観として『忍者武芸帳』を絶賛していた。ただし、階級社会とそれへの叛乱の描き方は、『カムイ伝 第一部』のほうがはるかに精緻であり、そして後者に顕著なのは、唯物史観の基礎たる自然と人間のダイナミズムを表したことであろう。裸の自然も裸の人間もたえず消えゆく過程にあり、自然化した人間と人間化した自然とが絡みあって展開する。この視点は、『カムイ伝 第一部』終了後の『女星』シリーズを介して、『カムイ伝 第二部』ではさらに鮮明だといえよう。しかしながら、白土は既存の唯物史観の超克を図っていたのだと思われる。

 管見では、マルクスとマルクス主義に稀薄な観点は、歴史を構成する個々人の生と死であり、とりわけ死の実相の探究である。そこにレーニン主義が加わるとなおさらである。実際の階級闘争・暴力革命には無数の死が必定であるにもかかわらず。かくして白土は、残酷との誹りを受けようとも、『忍者武芸帳』や『カムイ伝 第一部』において、主要人物はもとより、名もなき農民や足軽たちの壮絶な死を描きつづけたのではないか。だが、この点でさらに重要なのは、『カムイ外伝』の第一部と第二部との差違であろう。

 第一部で扱われる死は、追忍たちのそれである。対して第二部では重心が移る。追忍との死闘を繰り返し、死のなかに生を見いだしていく抜け忍カムイが、その生を共にするものたちの死へと。それは、カムイに思いを寄せる少女、侠客、老川魚漁師、男装の女剣士等々の人間にとどまらず、豪雪の山中に倒れたカムイを自分の温もりで息絶えても守り抜いた三本指の熊の死にまで及んでいる。幕藩権力の秘密を探り、闘いつづける一方で、カムイはこうした一つひとつの死を看取り、それらの死を心中に生きた。

 死とは死者だけに帰属する事柄ではあるまい。そもそも死の存立には、その死を正視し引き受ける者の存在が必須なのである。それゆえにこそ、人柱になることを運命づけられていた女(舞様)は、当の決行に際して、カムイに切願したのであろう。「最後に一つお願いがあります。私の最期を見届けてください」。白土が照らし出したのは、歴史を支える日常の死と生なのであり、そして、あらゆる「生き方」(ビオス)は「いのち」(ゾーエー)に基づいていることにほかなるまい。その描出姿勢は、『カムイ伝 第二部』にあっては権力者に対しても徹せられている。

 休載から一七年の歳月を経て再開された『カムイ伝 第二部』には、懐かしい人々が次々と登場した。裏切者に仕立て上げられ生死不明となった農民一揆の指導者正助に再会できたとき、私は心底嬉しかったのである。だが、農業改革を目指す正助は、政商河村瑞賢と連携し、黒鍬衆の頭として湖の干拓を手掛けている。生産力主義のもと、自然の大規模な人間化=大規模破壊の先駆になったともいえる彼を、白土はさらにいかに描こうとしたのだろうか。あるいはまた、存命の人物のうち未だ再登場していない漁師クシロはどうしているのだろうか。第一部は、彼が荒海に小舟を進めるところで幕を閉じ、白土三平はこう記していた。「いずれ大海に、このボロ船の姿を見ることがあるだろう」と。しかし、もはや一切を見ることが叶わないのである。

 白土三平氏、岡本鉄二氏のご冥福をお祈りする。

(こまつ・よしひこ=東京大学大学院客員教授・科学史・生命倫理学・死生学)

白土三平(しらと・さんぺい)=昭和中期から平成時代に活躍した漫画家。昨年一〇月八日、誤嚥性肺炎のため亡くなった。八九歳だった。昭和七年二月一五日、東京・杉並区生まれ。プロレタリア画家の岡本唐貴の長男として生まれる。本名は岡本登。はじめは紙芝居の原画や貸本屋用漫画を描き、昭和三四年、忍者を主人公とする『忍者武芸帳』で人気を集めた。『ガロ』連載の『カムイ伝』をはじめ、『カムイ外伝』など、長編歴史劇画のほか、エッセイも執筆。その他の漫画作品に『死霊』『甲賀武芸帳』『消え行く少女』『赤目』『サスケ』『ワタリ』など。
≪週刊読書人2022年1月28日号掲載≫