終わりなきミュージッキングへ

対談=野澤豊一×川瀬慈



『音楽の未明からの思考 ミュージッキングを超えて』(アルテスパブリッシング)が刊行となった。「ミュージッキング」という概念を軸に、ジャンルや作品といったモノではなく、出来事として音楽的行為を捉え、既存の音楽学とは異なる論集を提示し、ひいては私たちの社会の音楽を豊穣な場所へと解き放てないか、という精力的な取組みである。本書刊行を機に、編著者で文化人類学者の野澤豊一氏、川瀬慈氏に対談をお願いした。(編集部)
≪週刊読書人2022年2月11日号掲載≫




「音楽」を現象へ引き戻し、捉え直す

 野澤 今日はご自宅からですか? 後ろの絵がいいですね。

 川瀬 父が二〇代のときに描いた絵です。父は教員でしたが、陶芸、彫刻、油絵、いろいろやっていました。現在は寺の住職です。

 野澤 芸術と僧侶の組合せは、川瀬さんと一緒なんですね。川瀬さんは昔、自分のルーツから逃げ出したかったと聞いていたから、もっと堅苦しいお寺なのかと思っていました。

 川瀬 僕のミュージッキングは、物心つく前から阿弥陀経や声明です。せまい盆地の中の人間関係や、自らのルーツに息苦しさを感じて、アフリカの農村まで逃げてみたけれど、そこにも全く同じような共同体や、人と人のつながりからくる息苦しさがありました。もうこれはどこまで行っても逃げられないや、と観念しました(笑)。

 野澤さんはアメリカでフィールドワークをして戻って来た後に、地元の獅子舞に魅了されることになるんですね。

 野澤 そう、日本の音楽は外来文化の真似事ばかりだと考えていたんですが、一度離れてみて気づくことがありました。

 川瀬 今回の本は、国立民族学博物館で行われた、三年半にわたる共同研究の成果です。十六人が執筆していますが、共同研究の発表者はもっといましたね。

 野澤 三十名近くいたんじゃないかな。常々音楽を学術的に語るものにはつまらないものが多いと感じていたんです。比べてパフォーマンス自体はなんとも生き生きして、心を騒がすような面白さも危うさも含んでいるでしょう。そういう部分を切り捨てて分析しやすいかたちにするのが、オーソドックスな音楽学だけれど、今回は既存の研究書とは違うことをしたかった。そこからはみ出して研究している人たちに、手当り次第に声をかけたということなんです。

 川瀬 今回参加した大多数の人は、研究者兼パフォーマーでもあるのが、結構重要に思います。

 野澤 確かに、実践から体感したミュージッキングを論じていますね。

 川瀬 たとえば松平勇二さんは、ジンバブエのショナ社会における「音楽的霊性」について書いていますが、彼自身ンビラ奏者としてアフリカと日本で活動してきた人です。彼の調査地では才能=マシャウィは霊的存在と位置づけられ、感謝の儀礼を怠ると「才能は所有者から逃げる」と言われている。儀礼で共同体の人々と、食べ飲み、音楽や霊媒師との対話を楽しむことで、妬みや嫉みを解消する意味もある。霊的な世界と人間の世界が音楽や才能というものを通じ、相互に貫入しあうという話です。

 野澤 精霊が憑依する儀礼についてはアフリカ研究や人類学では聞く話だけど、それを音楽研究としてパフォーマンスの話題に紐づけたところが面白かったですよね。

 川瀬 それから矢野原佑史さんは、ラッパーでもありDJでもある。カメルーンのバカ・ピグミーの「ベ」という、自然発生的な音楽的「盛り上がり」とでもいうべき事象についてフィールドワークしています。さらにべのような儀礼のみならず、日常の民話語り、あるいは女性と子どもの談笑の場に発生したグルーヴを分析しているのが面白かった。民話語りの中で発生するコール・アンド・レスポンスや、談笑の最後の一声を皆で合わせ一斉に止める所作とか。「ともにグルーヴに身を委ね、グルーヴし終えるときには呼吸を合わせる」という日常的な「プロト・ミュージッキング」が場の心地よさや安心感をもたらしている、と。

 この矢野原論と、全く違う地域を論じる野澤論とが、コール・アンド・レスポンスしているとも感じたのです。野澤論では、アメリカ黒人教会の礼拝で、信者が「歌い」「奏で」「踊る」といった行為だけでなく、それぞれを継ぎ目なく繫ぐバンド演奏、拍手や歓声といった〈ざわめき〉、シャウトとよばれるトランス状態のダンス、その場のムードまで全てを音楽的行為と捉えている。牧師とバンドの間にある即興演奏の「対話」、牧師と聴衆との応答……。うねり連なる山脈のようなイメージを浮かべながら読みました。山や丘や平地というのは便宜上の区分けで、地球という大きな場において継ぎ目があるわけではない。音楽も同様で、野澤さんは「一つの表現の連続体」だと書いていましたよね。

 音楽を、様々な行為、社会的な脈絡と地続きの、常に動き続ける「未明」の現象へと引き戻し捉え、考える。それが今回の研究会と論集の試みですが、その核になる重要な問題提起が、野澤論と矢野原論にあり、さらにコール・アンド・レスポンスしていたように思うのです。

 野澤 これまでの音楽に関する議論は、クラシックだのロックだのR&Bだのとジャンルに細分化され、狭い枠組みに押し込められがちでした。それによって見えなくなってしまうのは、我々を圧倒的に巻き込んでいく音楽の力。作品や楽曲といったモノとしての音楽ではなく、ノイズを含みもつことで高まるパフォーマンスのダイナミズムを、取り出して論じ、議論したかった。音楽を研究することとは、作品の分析などではなく、有機的に生み出される人と人との関係性や、そこに作られてくる場を考えることへ広がっていくのだと、伝えたい気持ちがありました。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★のざわ・とよいち=富山大学准教授・文化人類学。共著に『顔身体学ハンドブック』『富山の祭り 町・人・季節輝く』、訳書にC・スモール『ミュージッキング 音楽は〈行為〉である』T・トゥリノ『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ』(共訳)など。一九七八年生。
★かわせ・いつし=国立民族学博物館准教授・映像人類学・アフリカ地域研究。著書に『ストリートの精霊たち』(鉄犬ヘテロトピア文学賞)『エチオピア高原の吟遊詩人』(サントリー学芸賞)、映像作品に『Room 11, Ethiopia Hotel』『精霊の馬』など。一九七七年生。