「かざり」と「簡素」の美を読み解く

対談=橋本麻里・千宗屋

橋本麻里著 『かざる日本』(岩波書店)刊行を機に

 美術ライターの橋本麻里さんが『かざる日本』(岩波書店)を上梓した。座敷や台から、茶室の彩色、空間を非日常に誘う香木の香気、〈見るもの〉としての紙、切子に煌めく光の粒子まで、日本美術や工芸の技と装飾性を、取材や書物を通して鮮やかに浮かび上がらせていく一冊である。本書刊行を機に、橋本さんと、千宗屋さん(茶道・武者小路千家家元後嗣)に対談してもらった。(編集部)
≪週刊読書人2022年2月25日号掲載≫




茶の湯自体が「かざり」

 橋本 この本は、「かざる」ことに注目して、人や物、工芸の技術や空間を取材してまとめた一冊です。日本で重視されてきた、無駄なものをそぎ落とす引き算の美学へのカウンターという意味もあります。お茶は、引き算の美学の総本山の一つとみなされてきました。ただ、千さんがいろいろな場所でお話しされているように、茶の湯のわびはそう単純なものではありませんよね。

 この本の出発点にあるのは、茶の湯を通じて得た経験です。稽古を通じて千さんにご案内いただくことで、その核心に触れることができました。ここで見たり聞いたりしたことが自分にとって非常に大きかったです。

  今日は貴重な機会をいただき、ありがとうございます。この本には千利休による二畳の草庵茶室「待庵」(国宝 妙喜庵蔵)、秀吉が作らせた「黄金の茶室」が取り上げられています。そもそも、通常の日常生活や衣食住という観点からすれば、茶の湯はなくてもいいものと言えます。その意味では、茶室や茶の湯自体が「かざり」と言う枠で捉えられますね。

 橋本 茶道具も儀式的な所作も、生活に必須なものではない、と。

  そうです。ある生活の観点からすれば、茶の湯そのものが無駄であるとも。

 豊臣秀吉の大坂城のなかにつくられた山里丸は、茶室や露地を備えたプライベートな住空間ではありますが、お城の機能にとっては不要な場所です。大坂夏の陣で、秀頼と淀君は、本丸御殿ではなく、山里丸で自害して果てた。豊臣家としての矜持を最期に示そうとしたのかもしれませんが、そのことは豊臣家や桃山文化の終焉を象徴している気がします。

 利休さんの茶の湯の道具は、無駄を切り詰めた簡素なものですが、茶の外から見れば、茶道具そのものがすべてかざりであるし、無駄であるとも言えます。

 橋本 なるほど。足し算・引き算とは別に、日常的なものと非日常的なものという分け方をすれば、お茶は非日常ですね。

  逆に、日常の用の道具であっても、お茶という文脈のなかに取り込んでしまえば、茶道具という日常には不要な品になってしまう。生活で本来必要とされた存在を一旦ご破算にして、別の価値を与える。それは価値の増大に繫がりながらも、本来の用途を否定しています。

 橋本 あるものの価値を足し算で増やすのではなく、別の文脈に置き換え、いったん価値をゼロにしたうえで、異なる価値を与えている。だから、茶の湯の「見立て」もそう単純なものではない。

  そうですね。たとえば現在なら、外国土産の鉢を茶の湯の水指に取り込めば価値が増大するかというと、そういうわけではありません。それは、単におみやげ品に蓋をつけただけのものになってしまう。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★はしもと・まり=美術ライター。永青文庫副館長。著書に『京都で日本美術をみる』『変り兜』など。
★せん・そうおく=茶人。茶道・武者小路千家家元後嗣。著書に『茶 利休と今をつなぐ』など。