新たな春へ、無数の「うた」響かせ

対談=姜信子×山内明美

『忘却の野に春を想う』(白水社)刊行を機に

 朝鮮からのコメ難民の末裔である作家の姜信子と、南三陸のコメ農家に生まれ育った歴史社会学者・山内明美。何を忘れ、何が損なわれてきたのか、いま一度「近代」を見つめ、自身を見つめ、世界を新たな言葉で語りなおす。往復書簡『忘却の野に春を想う』の刊行を機に、著者お二人に対談いただいた。(編集部)
≪週刊読書人2022年2月25日号掲載≫




杭を抜く言葉、水をめぐらせ、うたいつづける

 山内 二〇一八年末に最初の手紙をもらい、往復書簡が始まりました。

  二〇二〇年のオリンピックまで、と伝えたら驚いていましたよね。

 山内 オリンピックが延期になったから、さらに期間が伸びて。ここまで長い期間、毎回これほど重たい話をするとは思ってなかった(笑)。

  傍からは、殴り合っているみたいだ、と言われたりして。

 山内 二人は喧嘩しているのか、ってね。

  そうなったのは、山内さんが忖度を一切しない、嘘をつけない人だったから。私はそれに、きちんと伝えたい気持ちが募って、常に長い手紙になった(笑)。でも重いことを話すためにこそ、この往復書簡は始まったのだと理解しています。

 東日本大震災の後、東北に通うようになりましたが、それまで東北は未知の世界でした。東北を歩き、本を読む中で、心に届いたのが、山内さんの『こども東北学』だったのね。それからずっと、山内さんと話をしたいと思い続けていました。

 山内 最初は私には荷が重いと躊躇しました。

『こども東北学』は、自分としては読み返すのがしんどい本なんです。当時、南三陸では生き残った人が総出で、累々と上がる遺体を、自家用車で運んでいる状況でした。そういう中で、悠長に本を書いている自分が嫌で。気持ち的には何とかやりすごしたという、複雑な思いが残る本です。

 書簡は、やりとりを終えた後に、気がつくことが多かったですね。おそろしく誤解したまま、終わってしまった議論もあると思います。

  お互いに誤解から思わぬところへ転がって、世界が広がっていったのではないですか。

 私たちの往復書簡が苦しかった理由の一つは、お互いに、語る言葉を探しあぐねていたことだと思うんです。新たな春へと向かいたい私たちは、定型の語りでは収まりがつかない。もう一度世界を咀嚼し直し、自分の言葉で、しかも相手に届くように語りたかった。

 たとえば山内さんは、「水俣世界」と響き合うようにして〈三陸世界〉という言葉を使うけれど、その内実をどう表現するかは、相当悩んだと思います。一方手紙をやりとりする裏で、「まだ姜さんは自分の言葉で話していませんね」などと、コワいことも言う(笑)。

 山内さんがポンと差し出してくれた安藤昌益。これは大きな贈り物でした。彼は自分で言葉をつくり、辞書までつくってしまった人ですから。言葉から世界をつくり直そうという、壮大な企み。結局全集まで買ってしまいました。

 山内 大出費でしたね(笑)。

  山内さんはこうも書いていました。昌益は世界をつくり直そうとした一方、古い文字の「古い杭」を抜いて、「新しい杭」を打つことしかできない。つまり自分の打つ杭も、「同じ杭でしかない」と言っているんだと。

 山内 それに対し姜さんは、自分たちの言葉が、杭を打つ言葉ではなく、杭を抜く言葉であるように。絶えることなく杭を抜きつづけ、うたいつづける、と送ってきました。

  この世界の現状にどう穴をあけるのかは、二十年もずっと考えてきたことです。鉦・太鼓の音で澱んだ日常に穴をあけ、風を通し、水をめぐらせ、芸能で世界をよみがえらせる、そんな場を、韓国では「乱場」といいます。まあ、言うのは簡単です。でも、それを血肉化するには時間が必要。どのようにして乱場を、自分の暮らしの中に、生き方の中に、立ち上げていけばいいのか。山内さんとの往復書簡では、乱場と安藤昌益がピタッと嵌ったんですね。自分の言葉、自分の歌で世界を予祝したい私たちがいる。私たちが開く小さな「場」がある。そこから世界を変えていく。場を開くのは「声」であり、無数の「うた」には、近代が淫祠邪教と貶めた、風土の小さな神々、鳥獣虫魚の命が宿る。私たち一人ひとりの声が、小さな穴をプツプツあけて、違う世界を呼び寄せるのだと。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★きょう・のぶこ=作家。著書に『ごく普通の在日韓国人』(ノンフィクション朝日ジャーナル賞)『声千年先に届くほどに』(鉄犬ヘテロトピア文学賞)ほか。一九六一年生。
★やまうち・あけみ=宮城教育大学准教授・歴史社会学・農村社会学。著書に『こども東北学』『「東北」再生』(共著)など。一九七六年生。