ポピュリズムの向かう先
――「犠牲者ナショナリズム」と人民主義――

論潮〈3月〉 中村葉子

 近年、アメリカのトランプ政権やイギリスのEU離脱などにみられるように右派ポピュリズムが台頭している。こうした状況を受けて、『思想』2月号で組まれた「ポピュリズム時代の歴史学」はまさに近年あらわれた右派ポピュリズムに警鐘を鳴らすものである。韓国の歴史家である林志弦は欧米、日本、韓国の多角的な歴史修正主義の問題点を炙り出す。論考で興味深いのは「犠牲者ナショナリズム」という言葉である。日本の場合、唯一被爆国という「犠牲者」意識を構築することが、加害者意識(南京事件、従軍慰安婦問題)の忘却とネット右翼によるナショナリズムへの道を開いたとされる。ドイツでは戦中の連合国によるドイツ市民への攻撃をユダヤ人の迫害と同質に扱うことによって、ナチスの迫害を覆い隠す作用があったとされる。アメリカの白人至上主義もまたアファーマティブ・アクションなどを黒人の「優遇」として捉え、自分たちこそが差別された「犠牲者」であると認識する。こうした「犠牲者」意識によって自らの加害者性を隠蔽してしまうところに昨今のネオ・ポピュリズムの温床をみるのである(「ネオ・ポピュリズムの時代に大衆独裁を呼び起こす」)。

 ニーラードリ・バッターチャーリヤによると、インドのヒンドゥー右翼はインド内部のムスリムやキリスト教徒を排除し自らの支配体制を確立しようとしているという。そうした動向のなかでインド文化が内包する多様性(下位カーストや女性たちの物語)を真っ向から否定し、バラモンを頂点とするカースト制度の秩序の安定化を主張する。その背景にはとりわけ一九九〇年以降、社会運動の成果による下位カーストの権利獲得への反動があるとされ、右翼は自らをそうした「差別的政策」の「被害者」であるという言説を巧みに流布しているのだそうだ(「「ポスト・ナショナル」とはいつだったか?」)

 こうしたポピュリズムにおける「犠牲者」や「被害者」意識が容易に過去の加害の歴史を覆い隠してしまうのである。それはまた社会運動へのバックラッシュをともなって浮上してきている。一方でポピュリズムの事態がより深刻なのは、過去に「犠牲者」であったことが、現代の加害を不問にする手段としても用いられている点だ。これはイスラエルのネタニヤフ首相の右派政権にみられるように、パレスチナへの入植を批判するものは即座に「反ユダヤ主義」であると非難することで、侵攻を正当化し、批判を封じるのである。ユダヤ人「犠牲者」という言説が特権化され、民族ナショナリズムによって戦略的に使用されるのである(イブ・ローゼンハフト「多方向的記憶を超えて」)。上記の右翼ポピュリズムの趨勢は「犠牲者」意識にもとづいて過去の歴史認識を都合よく利用するということに貫かれている。このような右派の記憶をめぐる政治に対して、他方で左派が真っ向から対立しえなかったことを、ステファン・ベルガーは批判する。ベルガーによればリベラルの社会民主主義政治における「熟議民主主義」が、右翼ポピュリストを生みだしたという(「右翼ポピュリズムと格闘する」)。これはつまり「熟議民主主義」は意思決定に際して様々な意見を平等に聞き入れようとするが、それが「和解」や「合意」を目指すあまり、結局は異なる意見が排除されてしまう。そうして排除された意見が、右派ポピュリズムとなって温存されてしまうというわけだ。よって「合意」ではなく、政治的な対抗軸を可視化させ、徹底的に討議する場としての「闘技の記憶政治」(シャンタル・ムフの「闘技的民主主義」に基づくもの)を展開することが重要視されるのである。

 ポピュリズムがポスト福祉国家の時代における急激なグローバル化や緊縮財政、産業構造の空洞化によって疎外された人々の受け皿となっていることも見過ごしてはならない。既存政治への落胆、エリート階級に対する不信や恨みといった感情が少なからず「犠牲者」意識の根底にある。そのため、異議申し立てとしての「下」からの政治運動(直接民主主義)としてポピュリズムを捉えることもまた重要だろう(エルネスト・ラクラウ、シャンタル・ムフの「左派ポピュリズム」)。ポピュリズムはその語源がラテン語のpopulus=「人民」に由来することからも分かるように人民がその主軸に置かれる。そのためポピュリズム政党は「人民の全体の利益を代表するものとして自らを表象する」のである。一方、その「人民の一体性」ゆえに、異なる民族や宗教、マイノリティに排他的になる傾向を持つともいわれる(水島治郎『ポピュリズムとは何か』中公新書、二〇一六年)。こうしたポピュリズムの両義性を鑑みつつ、日本版ポピュリズム政党の代表格である「大阪維新の会」(以下、維新)に関する論考をみてみたい。維新は結党当初からポピュリズム政党であると指摘されてきたが、大阪に住む筆者はなぜ大阪府民は維新を支持するのか、把握できずにいる。維新が強いのはポピュリズムのせいなのか。大阪のポピュリズム論はなんといっても維新にみられる扇動的・敵対的な政治手法をもってそう断定する論者が多い。松本創は、「維新を勝たせる心理と論理」(『世界』3月号)において維新のメディア戦略を問題視する。第一に、大阪府と読売新聞社との包括連携協定の締結をあげる。包括連携協定とは民間企業が行政のパートナーとなって政策や事業を協力する手法である。これによって大阪万博やカジノを含むIR開発に関する報道に偏りが生じることが危惧される。あくまで「権力監視が最重要の役割」とされる報道機関が、その監視対象である行政と協力関係に陥ってしまったことを極めて異常なことだという。第二に、大阪府と毎日放送との癒着である。以前から毎日放送は維新の代表らを度々登場させていたことから、まるで党の宣伝番組であるとして問題になっていた。これについても松本は、二〇二一年の組織改編によってニュースを担当する報道局がバラエティー番組を担当する情報局の一部になったことで、政治的中立性や公正さが失われつつあるという。一方、こうした情報操作に対して、「大阪人」が「非合理的で、攻撃的な強者に依存的な社会的態度」であるから容易にポピュリストに扇動されるのだと苦言を呈する者もいる(村上弘「ポピュリズム(扇動政治)とリベラル・中道派」『市政研究』196号)。はたして大阪の「人民」は非合理的な判断(反知性主義ともいわれる)しかできないような状態にあるのだろうか。こうしたリベラル左派は人々を政治家に騙される「愚かな大衆」と見做すが、その像を否定したのが有権者の政治行動を詳細に分析して論じた善教将大である。『維新支持の分析』(有斐閣、二〇一八年)で善教は、維新が選挙で勝ち続ける理由は維新が大阪を代表する党であること、すなわち「集合的な利益を追求する代理人」として、あくまで合理的に有権者に認知されているがゆえであるとする。これは先にみたように「人民の全体の利益」を代表するポピュリズム政党であるかのようだ。大阪の利益を追求していると見做されているのであれば、それに反したときには支持基盤は揺らぐことになる。この点、大阪都構想の住民投票はまさにシビアな判断が下された。善教は、大阪都構想に関する市民の理解度を調査した結果、多くの大阪市民がメリット、デメリットに偏りなく正確に把握していたとする。そのような「批判的志向性が、賛成票の投票を踏みとどまらせた」と結論づけている。住民投票の反対論者がよくいうような特定の年齢(シルバーデモクラシー)や階層、地域の差(都心部とその周辺)に起因するものではないことが示される。

 これを踏まえると、維新の支持が覆るのはなにより人々の利益に背いたときであり、情報を偏りなく把握する批判的志向が働くときである。まさに今、維新政治の影響によって公立病院や保健所機能が縮小され、そのためにコロナで亡くなった人の数は全国最多に上っている。「犠牲者」を「犠牲者」として正確に認識することができるならば、これから大阪の「人民」の運動としてのポピュリズムがあらわれ始めるのかもしれない。(なかむら・ようこ=大阪府立大学客員研究員・社会学)