2020年 夏の文庫特集号

〈多様性という四次元ポケット〉
冲方 丁さんが文庫を買う!

本紙編集部選〈遠くへ行った気分〉になれる文庫三選

二〇二〇年は未踏の年であり、行動に大いに制約がかかる年でもあります。そんな夏に、心だけでもここから遠くへ行けそうな文庫本を、編集部で選んでみました。



●古沢和宏『痕跡本の世界 古本に残された不思議な何か』(七八〇円・ちくま文庫)
古書を買う時、なるべく状態のいいものを…と考えるのが人の常かと思っていたが、この著者は違う。「痕跡本」――例えば遠距離にある恋人へ宛てた愛のメッセージが書きこまれ、「分かった。オレ、こいつと話合わねー」とメモられた「こいつ」とは著者のことで、映画の見方を書いた新書になかった「映画索引」が付され、「この本を拾った人はこの表紙のうらを見よ」のメッセージの先には「ところでアナタは平和についてどう考えますか?」との本を手に取った人への問いかけがあり…。一冊の本に、著者の、第一読者の、それを贈られた人の、手にした古本屋さんの、痕跡本を読む古沢さんの、そして私の、思いが入れ子のように重ねられていく。秘密を覗き見るちょっとした罪悪感と、人っておかしな生き物だなぁとわいてくる笑い。本書を手に取ればあなたもどこか別の場所へきっと迷いこむことでしょう。(S)

●今邑彩『金雀枝荘の殺人』(六四八円・中公文庫)
「遠い場所」をカギに、本棚を眺めていてふと思い出したのがこの作品、の舞台となった館だった。金雀枝の咲き誇る庭に囲まれた、いわくつきの古いドイツ風洋館。想像される風景は美しいが、一年前、「グリム童話」を模した見立て殺人によって親族六人が命を落とした館である。
その謎を解くため、再び金雀枝荘に集まった兄弟姉妹たちは、怪しげなライターを交えながら、推理合戦を開始する。
見取図、クローズドサークル、金髪の麗人エリザベートの影に、四世代を巻き込む因縁と謎。ゾクリとする怖さが混ざった、本格ミステリは、ある仕掛けによって「ネバーエンディングストーリー」となっている。読み終わることで、読者は再び金雀枝荘に招待される。踏み込んでしまうと永遠に抜け出せない洋館――著者のあとがきの言葉を借りるなら「出口のない遊園地」――が、いちばん遠い場所なのかもしれない。(N)

●プラトン『パイドン』(納富信留訳、九二〇円・光文社古典新訳文庫)
個々の快楽や苦痛が魂を体にしばりつけているとしたら、死ぬことは「魂の肉体からの分離」であるかもしれない。体を離れれば、魂はもっと遠くまでいけるのだろうか。「魂は肉体における諸要素の混合であり、死と呼ばれる瞬間に最初に滅びる」としたら、この世界のかなたの、目に見えない別の場所に、死後の魂が向かうこともできなくなる。そこは物語(ミュートス)によってしか語ることのできない領域であるとも示唆されている。
言論を嫌い、言葉への信頼を失うことは、人間不信に通じている。ソクラテスが最期に残した問いかけの輪のなかに入っていくことは、自分自身と向き合い、言葉と他者への信頼を取り戻していくことでもあると思う。明瞭な訳文と注釈に感謝しながら、この夏、この本で問われていることの意味について考えつづけたい。(T)