目次

    part1

    part2

『やってくる』(シリーズ ケアをひらく・医学書院)
刊行記念対談

郡司ペギオ幸夫・大澤真幸

part2

 外部を召喚する「カブトムシ」

 大澤 バウンダリーとフロンティアの区別について、数学者スペンサー=ブラウンの概念を使うと、「cross」「unwritten cross(書かれざるクロス)」に対応している。「cross」は、彼の最も基本的な概念で、直訳すると「横断する」という意味ですが、境界(バウンダリー)を設定する操作を指しています。バウンダリーを設定すると、こちら側からあちら側へと横断できるので「cross」と呼ぶわけです。スペンサー=ブラウンによれば、すべての認識や行為は、「cross」です。

 ところで、スペンサー=ブラウンによると、任意のcrossは、unwritten crossを前提にしてはじめて成り立つ。unwritten crossはフロンティアに近い概念です。unwritten crossは、両義的な働きがあって、外部の唐突な侵入から人を保護すると同時に、外部の存在を消極的なかたちで暗示していて、外部をやってこさせる呼び水にもなっています。

 Tさんの事例は感動的ですが、ではこれがどうしていいのか。普通だったらパトカーの写真を見せられて「これなんだ」と聞かれればパトカーと答える。正しい答えのように思えるけれど、本当はTさんには、きっとズレ感があるわけです。先ほどの「認識と感覚の間のズレ」に対応したズレの感覚です。Tさんとしては、「聞きたいのはそれじゃない」という違和感こそが、本当に大事だった。郡司さんがそこでカブトムシと言ってしまうことによって、そのズレの感覚が主題として表現された。カブトムシがTさんにとって正解だったから素晴らしいのではなくて、どの回答でもズレや違和があるということが、初めてパッと見えたのだと思う。あたかも宇宙に穴が一瞬開いて、外部が入ってきた感じだと思う。というのも、郡司さんのこの本での理論によれば、「ズレ」があるから外部がやってくるのであって、いわばズレが外部を招いているわけですから。

 最近の流行の哲学との関係で言えば、思弁的実在論などがやろうとしている問題を、郡司さんのこの本はもうちょっと広く考えている。

 郡司 ああ、そうですね。

 大澤 思弁的実在論は――特にメイヤスーは――宇宙を律する法則そのものが偶有的だという極限的なことだけを考えています。しかし偶有性は、宇宙の全体とか、基本的な物理法則だとかいうことを考えているときにだけ出てくるわけではない。Tさんとの会話にすでに偶有性が孕まれている。郡司さんの「カブトムシ」というTさんへの返事は、「いかにもパトカーっぽく見えるこれはパトカーではないかもしれない」という偶有性に応じるものです。

 郡司 まさにそのスペンサー=ブラウンの出発点から突破していかないと駄目だと思ったのはそういうところなんです。「cross」、つまり境界づけるということは規定するということで、「わたし」というものを規定した途端に「わたしでない」ものが始まる。「わたし=わたしでない」、そういうところから出発しているわけです。「わたしではない」という規定のそのまた外側にも規定があって、隠された規定がたくさんある。そういう話になっているからある意味フレーム問題的なものと、「わたし=わたしでない」という自己言及的な二重化された議論になっている。

 ところがスペンサー=ブラウンの議論というのはその二つがどういうふうに入り組んで一つの風穴を開けていくかという話にならないんです。やはり自己言及的なものを考えているときは自己言及的な「わたし=わたしでない」であって、今は見えないんだけれどそれが現れた途端に「わたし=わたし」になって、フレーム問題と自己言及的な問題が分離されてしまう。

 先ほどのカブトムシの話にしても、パトカーの写真を見せられてカブトムシという答えが返ってきた。そこで言っているカブトムシというのはある意味、答えではなくて質問でもあるように思えるんだけれど、Tさんにとってはぷりぷりっとした感じやピカピカした感じがジャストフィットしたわけです。全く関係ないものでありながらある種必然だった。ヘレン・ケラーはサリバン先生に冷たい井戸水を手にかけられながら、手に指で「ウォーター」と書かれたときに、水だけではなくてすべての事物には名前があるというメタレベルの認知に飛んで普遍的なものがわかる。その経験は彼女にとって必然だったわけで、先ほどのTさんにおいてもカブトムシが必然だった。

 そういうところが重要で、ある種問題ではないし答えでもないというものが、必然的なところにバシッときて、それによって外部に開かれて何かやってくる。そのときにはフレーム問題と自己言及的なものが、ぐしゃぐしゃに噛み合ったような形になっているからこそ風穴が開くわけです。それをスペンサー=ブラウンのように整理しちゃうと、「アンチノミーそのものが実は扉であり、風穴を開けるある種の呪文なんだ」というところに至らない。そういうことではないかと思うんです。


 「猫でない」というよりはむしろ「猫である」

 大澤 僕がこの本で郡司さんらしくていいなと思ったのが、「猫でない、というよりはむしろ、猫である」(第二章)という一節で、人は猫がいて猫であると積極的に認識するのではなく、猫ではないというよりはむしろ猫だろう、と認識する。猫でないなら何なのだと言っているわけではない。猫ではないというものの猫の外というのはポジティブに言われてはいないんだけれど、「ではないよりむしろ」とすることによって外部に対する一瞬の言及がある。これが、外部についてのギリギリの表現になっている。この本は、こういう語り口を突き詰めていく一つの思考のチャレンジである、という感じがします。

 それにしても、この本の特徴は、郡司さんの体験からくる事例の突飛さですね(笑)。あるとき出張先で電車に乗る前に弁当を買う。コンビニに寄ってスーパーマーケットで弁当を迷って…とか、それはそれで郡司さんの語りとして読ませるのですが、最終的に言おうとしていることを導く上ですごく錯綜した流れになる事例を使う。「俺、明日からラーメン屋やります」(第六章)も何の話かと思うけれど、それが実は時間という問題、つまり因果関係が書き換えうるものであるという時間論の話として出てくる。言おうとしていることの一般性と、郡司さんの事例の持つシンギュラーなインパクト。ここにすごいギャップがあって、そのギャップがこの本を支えている。つまり、この本自体が「やってくる」ものです。

 郡司 先ほどのカブトムシとかヘレン・ケラーのウォーターとか、シンギュラーでありながら普遍的なことの非常にわかりやすい例が、この本の「わたし」とか「いま・ここ」ということです。

 大澤 「カブトムシ」の話が実感できるかどうか、このエピソードに何か本当によきものを感じるかどうか、それが、この本をわかったかどうかの試金石になる。この本は、何か人を動かすものがある。この本は本にするまでのプロセスで編集者含め何人かのそういう人たちがすごく良いアドバイスをしてくれているということを感じます。郡司さんに対して「カブトムシ」と言ってくれている人がたくさんいるということですね(笑)。本書の挿絵もすべて郡司さんが描いたものですごく味があります。(おわり)

★ぐんじ・ぺぎお・ゆきお=早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授。理学博士。著書に、『生きていることの科学』『生命、微動だにせず』『いきものとなまものの哲学』『群れは意識をもつ』『天然知能』など多数。一九五九年生。
http://www.ypg.ias.sci.waseda.ac.jp/

★おおさわ・まさち=社会学者。著書に、『ナショナリズムの由来』(毎日出版文化賞)、『〈自由〉の条件』『〈世界史〉の哲学 古代編・中世編・東洋編・イスラーム編・近世編』『社会学史』『社会は絶えず夢を見ている』『自由という牢獄』『三島由紀夫 ふたつの謎』『コロナ時代の哲学』など多数。一九五八年生。
http://osawa-masachi.com/

《シリーズ ケアをひらく》一覧はこちらから