実利に基づく平和思想を唱えた人

『石橋湛山の経済政策思想』(日本評論社)刊行を機に

対談=原田泰×和田みき子

PART2

戦前の人口問題と貿易問題

 原田 つづく第6章では戦後石橋湛山がはじめた傾斜生産方式がなぜ社会主義者の有沢広巳の業績になったのかについて、第7章では石橋が戦前日本の人口問題と世界貿易をどう考えていたかということを主に和田さんが論じられました。前段の話の流れから先に第7章の人口問題と関連する世界貿易について話を進めていこうと思います。

 本書中で行った分析は後ほど和田さんに詳しく語っていただきますが、まず私が前提になる部分をお話させていただきます。現在の日本は人口減少が社会問題になっていますが、戦前日本は逆に人口過剰を心配し、人口問題を解消するために海外領土や植民地が必要で、そのために強力な軍隊を編成しなければならない、という議論が盛んでした。対する石橋は経済成長によって雇用を創出し、それによって人口過剰問題は解消できると考えていました。

 当時の欧米列強は植民地を獲得することが経済的利益につながると考えていましたが、石橋は植民地経営をしたところで大して収益は上がらないし、そのために余計な軍費がかさみ経済的効果が見込めないことを立論しました。加えて彼は人道的観点からも植民地政策に反対する立場でもあったので、経済・倫理の両面で平和主義を唱えていたのです。日本は戦争に負けたことにより全ての植民地や海外領土を失いましたが、それにもかかわらず戦後は飛躍的な経済成長を果たして豊かになりましたよね。くしくも敗戦という結果が石橋の主張の正しさを証明したわけです。

 和田 石橋湛山の人口論をお話する上で外すことができない人物に上田貞次郎という経済学者がいます。前述の猪間驥一と並んで石橋と関係のあった重要人物で、私はこの上田と石橋こそ当時の自由主義経済学者の双璧だったと思いますが、不思議なことに従来の石橋研究の中に上田という人物は登場しませんし、逆もしかりです。双方が協力関係にもあったにも関わらず、です。本書の第7章では石橋と上田が1930年代にどのように連携して、人口問題の解決を目指したかを論じました。

 上田も石橋と同様に経済成長によって職が得られれば人口に過剰はない、という結論に達していました。1930年代のはじめにはまだ日本の将来人口を合理的に予測したデータがなかったので、日本の人口が急激に増加し大陸に手を伸ばすのではないか、と海外の人たちからの不当な誤解による恐怖を抱かれていました。上田は、国勢調査が開始された1920年から以降10年間の出生数が毎年210万人で静止していることを発見し、そのデータを元に将来的に日本の人口は8000万人程度で静止するだろうと予測しました。ただ、乳児死亡率の低減等もあり、これは結果的に誤りだったわけですが。

 当時の日本の人口増加問題に対して、海外の経済学者や人口学者からは移民は現実的な対策でないと予め議論から除かれた上で産児制限が提案されましたが、上田はこの提案に対して「これは産児制限ではいかんともしがたい、なぜなら、生産年齢人口はすでに生まれてしまっているから」と主張します。これはどういうことかというと、これから生まれる子供は、産児制限等で減らすことができるが、すでに生れている子供たちは、これから20年間、次々と生産年齢人口に参入していく。これはどうにもならない。そのこれから増加する生産年齢人口1000万のうち、少なくても女性を除くこの半数に対しては確実に職を与える必要がある、と説明をしました。この主張が1933年夏のバンフ太平洋会議において発表されて、「要職人口1000万」というスローガンが新聞の見出しにもなり世界に発信されました。上田の発表は人口増加の圧力で満州事変のようなことが再び起こらないことを願っている海外の人たちから歓迎されたのです。

 上田はその3年後の1936年、二・二六事件直後に開催されたヨセミテ会議でも同様の主張を続けます。その頃、日本が軍国主義を加速させて大陸政策を推進するのではないか、という疑惑もさらに広がっていた最中だったので、上田も苦戦を強いられましたが、日本への市場開放を求めるその主張が一定程度の理解を得て、翌年初頭に日米綿業協定の成立という、貿易政策上の大きな成果をもたらしました。

 ヨセミテ会議の1ヶ月後、石橋は上田を後押しする意味で「世界開放主義」を発表します。これは「貿易に関する限り植民地を完全な独立国とみなす」、という保護主義を強めている英連邦を念頭においた提唱です。これが国際連盟原料品委員会における日本代表の資源再分配の1試案としてコンゴー盆地条約、東部アフリカの各植民地に対する各国の利害を調整するために生まれた条約の精神の適用を求める訴えとなって結実します。戦前の上田・石橋の働きによって人口増加問題に伴う海外からの誤解を解き、合わせて日本の貿易政策の拡充につながった、というここまでの話は、実は従来の研究の中であまり語られてきませんでした。

 以上の人口増加問題や貿易の議論を踏また上で今回の石橋湛山研究で得られた最も重要な結論は、日本の輸出は世界の利益を奪っていなかった、という事実の確認でした。1931年12月に犬養内閣が成立して高橋是清蔵相がただちに金輸出再禁止を断行して、日本は世界恐慌の不況から世界に先駆けて立ち直りました。その勢いをもって日本は不当に輸出を伸ばしたと語られてきましたが、ドル建てに直したデータで世界全体の輸出のシェアを見ると、日本の輸出のシェアは3%からせいぜい4%に上昇しているだけでした。ここが理解されずに当時ソーシャル・ダンピングといった声も上がり、人口増加問題に対する恐怖も重なって日本には批判が集中しました。ところが日本は「入超」つまり貿易赤字の状態が続いていたのです。これは自国の景気回復のために輸出だけでなく輸入も同時に拡大をしていたということの証明にもなります。ですから当時の世界経済の回復のために日本は多大な貢献していた、と言い換えることができますね。

 原田 1930年代の日本の輸出は世界的に大変評判が悪かったとされていますね。1931年が当時の世界経済のボトムで、その年と比較して日本の輸出が3倍近く増えているというデータが良く出てきます。しかし、それはあくまでこの時期下落していた日本円で換算した数値であり、ドル建てで見ると横ばいです。このことを石橋湛山はきちんと指摘していたのですが、国内の右派は欧米列強による日本の輸出を妨害するための日本バッシングだと被害妄想的な論じ方をし、左派側は和田さんがおっしゃったソーシャル・ダンピング、つまり日本人の生活水準を犠牲にした輸出量増加だと批判しました。しかし、そもそも両者の主張は事実ではなかったのです。当時、日本は綿織物の輸出を伸ばして、そのためにイギリスがさかんにケチをつけてきましたが、同時期にイギリスから機械などの工業製品を大量に輸入していました。ちなみに私が最近見学したある造船所では1920年代か30年代にイギリスから輸入したクレーンが現在も使われていました。この時代のイギリスの工業力は圧倒的で、日本はまだまだでしたから上等な機械製品を輸入する必要があった。だからいくら輸出を拡大しても貿易赤字は続いていた、ということです。貿易相手国の一部の業者からの反発はあったでしょうが、他方で日本はいいお客さんでした。石橋の貿易をめぐる議論にはこのあたりの分析もきちんと含まれています。


傾斜生産方式と石橋湛山

 和田 本書の第6章は「なぜ傾斜生産方式が有沢広巳の業績になったのか」という章題をつけました。もともと傾斜生産方式という政策は「石炭3000万トン生産」という石橋湛山が蔵相時代にとりかかった政策でしたが、なぜそれが戦後吉田茂首相の設立した私的諮問機関、石炭小委員会委員長でマルクス主義者の有沢広巳の業績になったのか、ということを検証しています。傾斜生産方式というのは国内石炭資源を無理やり開発して日本経済を回復させようという政策で、ここまでお話してきた石橋湛山の自由貿易主義とはまったく異なる話であるということを念頭におく必要があります。当時アメリカ占領軍が日本に対して自由貿易を許可しなかったので、石橋自身仕方がなくこの政策を進めるしか手段がなかった、という点をあらかじめ考慮しなければいけません。

 ではなぜ傾斜生産が有沢の業績になったのか。石橋による石炭増産策は有沢の傾斜生産に先行する形で吉田内閣に採用され、1947年初頭から石橋が追放されるまで実施もしていたのですが、実はこの部分が歴史の記述から抜け落ちています。またこの時期の有沢は石橋が石炭増産策と同時期に設立した復興金融金庫による融資をインフレ政策だとやり玉に挙げて批判していたのですね。一方でそれらの成果を自分の実績にするために言い方に語弊があるかもしれませんが生涯を通して画策した……。

 原田 (笑)。

 和田 有沢はこれらの復興政策を自分の手柄にするため、石橋の仕事の痕跡を抹消することに腐心してきました。そして彼が傾斜生産の担い手として日本社会党をあてにしていたことも文献によって確認できます。さらに第1次吉田内閣退陣後に政権についた社会党片山内閣との折り合いが悪くなると、今度は傾斜生産を自分とGHQの業績のみによるものだった、とまで言い出します。このような有沢の画策は従来の研究では一切言及されてきませんでした。一方、当の石橋はといえば有沢の画策を取るに足らないものだと思っていたはずです。なぜなら石橋にとっての戦後復興における最重要課題は自由貿易の再開だったわけですから。傾斜生産の議論以前に自由貿易再開に目を向けていた点こそ最も強調されていい部分だと考えます。

 原田 傾斜生産の発案者が有沢ではなかった、ということは歴史を学ばれた方からすると驚きに価するかもしれません。実はこの事実を裏付ける証言が残っていて、共産党書記長の徳田球一が石橋蔵相を批判した際に、傾斜生産による石炭増産策は他の重要なところに必要な資源が行き届かなくなり、かえって大混乱を引き起こす原因になっている、と指摘しています。つまり共産党書記長自ら傾斜生産を行っている張本人を石橋湛山だと認めていて、なおかつ上手くいっていない政策だ、と言ったのです。ようするに傾斜生産政策自体その程度のものだった、というわけです。石橋からすれば傾斜生産は和田さんがおっしゃったようにやむを得ずやっただけで、彼自身、この政策が上手くいったという認識はしていなかったでしょう。だから有沢が傾斜生産を自分の手柄にしようとしても、あえてそれを打ち消す働きかけをしなかったのだと思います。

 和田 有沢がインフレの原因だと批判した復興金融金庫ですが、実は石橋財政期には全くと言っていいほど融資制度が利用されていませんでした。復興金融金庫設立の準備を進めたのは石橋ですし、石橋財政期に設立を見たのは事実ですが。そこで、片山内閣に代わったときにGHQが利用を促したんですね。このことは『GHQ日本占領史』(日本図書センター)という本にも書かれています。もし傾斜生産が有沢のものであるなら、復興金融金庫によって救われたのは批判した有沢自身だったことになります。石炭3000万トンが実現したのは復金融資のおかげだったのですから。

 原田 実際、復興金融金庫がインフレの原因になったのは当初有沢があてにしていた片山内閣の時だったわけですしね(笑)。<つづく>



★はらだ・ゆたか=名古屋商科大学ビジネススクール教授。経済企画庁国民生活調査課長、調査局海外調査課長、財務省財務総合政策研究所次長、株式会社大和総研専務理事チーフエコノミスト、早稲田大学政治経済学術院教授、日本銀行政策委員会審議委員などを経る。著書に『日本の失われた十年』『日本国の原則』『震災復興』『ベーシックインカム』など。1950年生まれ。

★わだ・みきこ=近代史研究家、明治学院大学社会学部付属研究所研究員、明治学院大学社会学博士。「1920年代の都市における巡回産婆事業」にて第4回河上肇賞奨励賞受賞。主著論文に『猪間驥一評伝』「1926年の「産めよ殖えよ」と1939年の「産めよ殖やせよ」」「猪間驥一東京帝国大学経済学部追放事件の検証」など。1951年生まれ。