実利に基づく平和思想を唱えた人

『石橋湛山の経済政策思想』(日本評論社)刊行を機に

対談=原田泰×和田みき子

PART2




傾斜生産方式と石橋湛山

 和田 本書の第6章は「なぜ傾斜生産方式が有沢広巳の業績になったのか」という章題をつけました。もともと傾斜生産方式という政策は「石炭3000万トン生産」という石橋湛山が蔵相時代にとりかかった政策でしたが、なぜそれが戦後吉田茂首相の設立した私的諮問機関、石炭小委員会委員長でマルクス主義者の有沢広巳の業績になったのか、ということを検証しています。傾斜生産方式というのは国内石炭資源を無理やり開発して日本経済を回復させようという政策で、ここまでお話してきた石橋湛山の自由貿易主義とはまったく異なる話であるということを念頭におく必要があります。当時アメリカ占領軍が日本に対して自由貿易を許可しなかったので、石橋自身仕方がなくこの政策を進めるしか手段がなかった、という点をあらかじめ考慮しなければいけません。

 ではなぜ傾斜生産が有沢の業績になったのか。石橋による石炭増産策は有沢の傾斜生産に先行する形で吉田内閣に採用され、1947年初頭から石橋が追放されるまで実施もしていたのですが、実はこの部分が歴史の記述から抜け落ちています。またこの時期の有沢は石橋が石炭増産策と同時期に設立した復興金融金庫による融資をインフレ政策だとやり玉に挙げて批判していたのですね。一方でそれらの成果を自分の実績にするために言い方に語弊があるかもしれませんが生涯を通して画策した……。

 原田 (笑)。

 和田 有沢はこれらの復興政策を自分の手柄にするため、石橋の仕事の痕跡を抹消することに腐心してきました。そして彼が傾斜生産の担い手として日本社会党をあてにしていたことも文献によって確認できます。さらに第一次吉田内閣退陣後に政権についた社会党片山内閣との折り合いが悪くなると、今度は傾斜生産を自分とGHQの業績のみによるものだった、とまで言い出します。このような有沢の画策は従来の研究では一切言及されてきませんでした。一方、当の石橋はといえば有沢の画策を取るに足らないものだと思っていたはずです。なぜなら石橋にとっての戦後復興における最重要課題は自由貿易の再開だったわけですから。傾斜生産の議論以前に自由貿易再開に目を向けていた点こそ最も強調されていい部分だと考えます。

 原田 傾斜生産の発案者が有沢ではなかった、ということは歴史を学ばれた方からすると驚きに価するかもしれません。実はこの事実を裏付ける証言が残っていて、共産党書記長の徳田球一が石橋蔵相を批判した際に、傾斜生産による石炭増産策は他の重要なところに必要な資源が行き届かなくなり、かえって大混乱を引き起こす原因になっている、と指摘しています。つまり共産党書記長自ら傾斜生産を行っている張本人を石橋湛山だと認めていて、なおかつ上手くいっていない政策だ、と言ったのです。ようするに傾斜生産政策自体その程度のものだった、というわけです。石橋からすれば傾斜生産は和田さんがおっしゃったようにやむを得ずやっただけで、彼自身、この政策が上手くいったという認識はしていなかったでしょう。だから有沢が傾斜生産を自分の手柄にしようとしても、あえてそれを打ち消す働きかけをしなかったのだと思います。

 和田 有沢がインフレの原因だと批判した復興金融金庫ですが、実は石橋財政期には全くと言っていいほど融資制度が利用されていませんでした。復興金融金庫設立の準備を進めたのは石橋ですし、石橋財政期に設立を見たのは事実ですが。そこで、片山内閣に代わったときにGHQが利用を促したんですね。このことは『GHQ日本占領史』(日本図書センター)という本にも書かれています。もし傾斜生産が有沢のものであるなら、復興金融金庫によって救われたのは批判した有沢自身だったことになります。石炭3000万トンが実現したのは復金融資のおかげだったのですから。

 原田 実際、復興金融金庫がインフレの原因になったのは当初有沢があてにしていた片山内閣の時だったわけですしね(笑)。


追放の背景

 原田 石橋湛山が戦前から一貫して自由貿易を促すための発言をし、同時に行動もしてきたことはすでに申し上げましたが、戦後石橋の蔵相在任期間には実現できなかった。その理由は単に彼が蔵相を1年しか務めることが出来なかった、ということだけでしょう。石橋が政権から追放された後にGHQの占領政策にも変化がありました。当初は敗戦国日本に対し貿易を認めませんでした。それは懲罰的な意味合いがあったのでしょう。ただその状態が続けば当然日本国内で必要な消費財や食糧などは作れません。特に食糧が不足すれば社会は不安定化し、反体制勢力の力も強まるからGHQとしても統治に困ります。その時期は貿易を許可しない代わりにアメリカ国内の過剰農産物を利用した食糧援助を行っていました。そのことについてアメリカ国内で批判の声が高まった。犠牲を払って戦争に勝って、何で食糧援助までしないといけないのかと、アメリカの納税者は怒っていたのでしょう。占領軍は日本の貿易を許可して必要な物資を自前で生産させるという現実的な路線に切り替えていきます。さらに国際情勢ではソ連や中国共産党に対峙する必要に迫られたため、1948年頃から日本に自由な貿易を少しずつ許していき、最終的に1949年のドッジ・ラインをもって完全な自由貿易の実現に至りました。それから間もなく高度成長期に突入していくので、その頃まで石橋が政権にいれば彼の手によって高度成長を実現できたはずです。ですから戦後の自由貿易解禁に携わることができなかったことは彼にとって忸怩たる思いだったでしょう。

 和田 石橋蔵相期に完全な自由貿易は認められませんでしたが、吉田首相がGHQに掛け合って特例として重油の輸入を認めさせました。その後も繰り返し交渉を重ねていたのですが、結局第1次吉田内閣期には実現できませんでした。それが次の片山内閣期には一気に課題が解決方向に進み、自由貿易もある程度制限はかけられていたとはいえ、許可されるようになったのですね。それはある意味石橋に対する嫌がらせのようなもので、彼が一番やりたかった政策をやらせてもらえなかった。石橋の蔵相時代に出来ていたら、日本の復興はより早く進めたはずです。

 原田 ところでなぜ石橋が追放されたか、という話ですが、これには諸説あります。増田弘先生の『石橋湛山』(中公新書)に詳しく書かれていますが、私は、主だった理由は石橋がGHQに対してあまり融和的でなかったから嫌われた、ということではないかと思います。加えて左派からの圧力もあったのではないかとも思います。石橋をどうしても追放したい人たちが、戦争中に彼が書いたものなどを一生懸命探してきて、ですね。さらに無理やり彼の発言を曲解して戦争協力をした人物だとみなし、結果追放されることになりました。

 確かに石橋が戦前から政府に協力していたのは事実です。ただ彼は戦争に負けたあとの処置をよくよく考えておかなければいけないと考えて、当時政府の中にいた真っ当な人たちと議論を重ねていました。それを戦争加担というのであれば、彼と関わりのあった人たちも全て追放する必要がある。でも、戦後処理の最中にそこまでやったら余計混乱します。石橋の協力者の中には石橋追放に反対する人もいましたが、結局はあらぬ言いがかりによる無実の罪で追放されてしまった、という顛末です。

 では、なぜ左派がそこまで石橋を敵対視するのか。冒頭の話の繰り返しになりますが、マルクス主義史観で昭和恐慌、世界恐慌を論じると資本主義そのものに原因がある、というロジックです。しかし石橋湛山の分析は資本主義自体ではなく、あくまで金融政策、為替政策の失敗によって起きたものと論じていますので、マルクス主義の側からみればそれではまずい。

 また和田さんが冒頭おっしゃった猪間驥一の『海外活動』の中に日本の昭和恐慌から軍国主義に至る歴史も書いています。その歴史の中で石橋の昭和恐慌理解を要約する形で論じていますが、なぜか公刊されず、マルクス主義者の大内兵衛が編纂した『昭和財政史』に置き換わってしまった。この『昭和財政史』は大蔵省の要請による公刊物なので、昭和恐慌をマルクス主義史観的な資本主義の破綻とまでは書いていませんが、石橋が論じた金融政策の失敗というテクニカルな要因であるとも書いていません。むしろ高橋蔵相期の金本位制離脱や財政拡大策が、戦前のインフレや軍備増強に結びつき、それが戦争を引き起こす要因になった、という話にすり替わっています。

 なお、当時の物価データを検証すると高橋蔵相期は全然インフレではなく、デフレ状態からデフレ前の水準にやや戻し、その後わずかに上昇しただけです。戦前のインフレは高橋是清が二・二六事件で暗殺されて以降歯止めがきかなくなって、財政支出の拡大と金融緩和が進みすぎて起きた、というのが事実です。この『昭和財政史』に書かれた高橋是清による金融緩和や財政支出拡大がインフレを誘発した、というとんでもない話を作家の城山三郎も真に受けて『男子の本懐』という作品になり、捻じ曲がった歴史の理解が続いている。大蔵省、現在の財務省の役人はいまだにマルクス主義史観を引きずった『男子の本懐』を好んでいますから、私にしてみればしょうもない話です(笑)。

 和田 猪間驥一の『海外活動』をさらに解説しますと、1920年代に石橋湛山が提唱した小日本主義という考え方こそが、日本が大陸へ向かおうとする意識を引き戻すことにつながった、というのが大枠の論旨です。当時の日本は景気悪化で国内が貧しくなり、大陸進出に意識を向けるようになりました。上田貞次郎はこれを「人口の圧力」と呼び、満州事変の原因になったと論じています。満州事変後の高橋蔵相期に石橋が提唱したリフレーション政策によって景気を回復させ、日本人の意識を大陸から一旦引き戻すことができた、と。そのことを一番認めたくなかったのが大内兵衛でしょう。『昭和財政史』をはじめこれまで書かれた多くの歴史書の中には満州事変から日中戦争に至るまでの日本国内の歴史が空白になっていて、中国大陸での出来事にのみフォーカスがあたっています。だから15年戦争というような言い方をしているのだと思います。満州事変以降、日本国内で石橋や上田が行った自由貿易を実現させるための努力、前述のバンフ太平洋会議やヨセミテ太平洋会議での成果への言及が一切出てきません。大内は景気回復や自由貿易を通じで戦争を回避しようということもしていませんし、戦前から高橋財政はインフレだと批判していましたし、戦後も石橋財政はインフレだと非難していました。この点から見ても彼らにとって石橋湛山は一番邪魔な存在だった、といえると思います。

 原田 ところで、マルクス経済学者や左派的な歴史家の存在は理解できるのですけれども、私がどうしても理解に苦しむのが大蔵省、現在の財務省や日銀官僚が左派的なイデオロギーに賛同していることなんです。

 和田 大内はもともと大蔵省の役人ですから、その点も関係しているんじゃないでしょうか。大内は、東京帝国大学の経済学部の創立とともに、東大へやってきます。ちなみに大内に対して満州事変以降の財政金融史、主として日本のインフレーションの過程の歴史を書くように提案したのは、渋沢栄一の孫で終戦後間もない頃に日銀総裁を務めていた渋沢敬三ですね。渋沢は東大時代に大内門下だったので、東大人脈の結びつきの強さも理由の1つと考えられます。

 原田 東大には左派の先生が多く在籍していて、その人たちが将来の役人たちを教育して官僚の中に思想が広まっていったという流れは確かにあるでしょう。ではなぜマルクス主義が彼らに受け入れらやすいのか。それはマルクス主義的考え方なら自分たち官僚の責任を免除してくれる、ということがあるのだと考えられます。昭和恐慌は井上準之助が行った旧平価での金本位制復帰、つまり緊縮政策によって起きた明確な失敗です。これをマルクス主義の立場で論じれば決して井上の失敗にはならない。なぜなら資本主義の欠陥に原因があるわけだからどうしようもなかったのだ、となる。むしろその後、経済の立て直しのために緩和政策を行った高橋是清をインフレの主因とみなしている。確かに高橋は不況対策のために緩和政策を行いましたが、同時にその効果が十分に発揮された段階で適度に緊縮し経済をきちんとコントロールしたのですがそこは黙殺している。井上の緊縮政策による不況が原因で軍部の力が強まるきっかけを与えることになり、高橋が暗殺された後、より軍部の力が強大になったために戦前のインフレを抑えることが不可能になったわけです。そもそも不況にしなければ軍部の力も必要以上に強まらず、大蔵省の政策によってコントロールできたかもしれない。しかし当の大蔵官僚たちはそうは考えない。経済が落ち込もうが頑なに緊縮が正しいと主張し、その先で何が起ころうともマルクス主義者や左派の歴史家たちが自分たちの責任を免除してくれる。だから彼らの説を支持し続ける、というところですかね。いずれにしても私にはよくわからない人たちです(笑)。