目次

    Part1

    Part2

資本主義vs.脱成長コミュニズム
人びとにとっての希望の社会とは

柿埜真吾インタビュー

『自由と成長の経済学』(PHP研究所)刊行を機に

Part2



フリードマンの「新自由主義」

 ――第7章の冒頭、柿埜さんは「脱成長コミュニズムの妖怪」というフレーズを使っていらっしゃいます。私はこの一節を読んだときに『新自由主義の妖怪』(稲葉振一郎著、亜紀書房)という本を思い出しました。稲葉さんは<この言葉(新自由主義)に多分実体がない――具体的にまとまったある理論とかイデオロギーとか、特定の政治的・道徳的立場を指す言葉というよりは、せいぜいある種の「気分」を指すもの、せいぜいのところ批判者が自分の気に入らないものにつける「レッテル」であって「ブロッケンのお化け」以上のものではないのではないか>と「妖怪」という語を使った理由を述べていますが、柿埜さんが「脱成長コミュニズム」に対して「妖怪」を当てはめた理由を教えてください。
またちょっと脱線しますが「新自由主義」という語について柿埜さんのご意見をお聞かせください。


 柿埜 「妖怪」という言葉を使ったのは単に『共産党宣言』のオマージュです。「ヨーロッパに妖怪が出る、共産主義という妖怪が」という有名な冒頭の一節をもじりました。原著の「ゲシュペンスト」というドイツ語は「亡霊」と訳すことが多いのですが、「妖怪」「お化け」の意味もあります。「脱成長コミュニズム」とは何かということを考えてみても、ボヤッとしていて正体がはっきりしない、お化け、妖怪的なところがあるなと思ってこの言葉を使いました。

 あと「新自由主義」をどう考えるか、というご質問ですが、これってすごく大事なポイントなんですよ。私自身、新自由主義というものをどう扱うか非常に困っていまして(笑)。そもそも新自由主義という語が何を指しているかわからない。それに自分のことを新自由主義者だと名乗っている人もまずいません。それなのに新自由主義という言葉がひとり歩きして、トランプや新保守主義、愛国主義教育といったものすべてが新自由主義になってしまう。挙句の果てに精神医学の何とか行動療法とかオタク文化、消費税増税まで新自由主義だと言われる始末です。これはもうレッテル貼り以外の何ものでもないのです。

 前著『ミルトン・フリードマンの日本経済論』(PHP研究所)を書いたとき私は新自由主義という言葉に一切触れていなければ説明もしていません。一般的に新自由主義とミルトン・フリードマンを結びつけて論じられることが多いのですが、フリードマン自身、新自由主義という言葉を使ったのは実は1回だけなんです。それもデビュー前といえる、1951年のマイナーな論文「新自由主義とその展望」のなかでヘンリー・サイモンズという彼の先生の主張を好意的に紹介するときに使っただけです。

 では、フリードマンはそのマイナーな論文のなかで新自由主義をどう説明したか彼の言葉を紹介します。新自由主義がいかに恐ろしいものなのかわかると思いますよ(笑)。

「個人の活動に事細かに干渉する国家権力への厳しい制限を重視しつつも、同時に国家が果たすべき重要な望ましい役割があることを明確に認識すべきである。このような考え方がしばしば新自由主義と呼ばれている思想なのである。…政府は…独占を防ぎ、安定した金融政策を実施し、悲惨な貧困を救い、…公共事業を実施し、…自由競争が繁栄をもたらし、価格システムが効果的に機能するような枠組みを提供すべきである。」(Milton Friedman(1951) “Neo-Liberalism and its Prospects” Farmand, 1951,17 February)

 単純な自由放任主義、国家が巨大な権力をもって支配する社会主義、どちらにも問題があるので、それを克服するための提言です。一部極端な社会を望んでいる人以外の大多数の人たちが賛成する、最大公約数的なまっとうな意見だと思いますがいかがでしょうか。もし新自由主義というものをきちんと定義づけするなら、こういった意味になるので、反対する理由がありませんよね。新自由主義という言い方はあまり流行らず、その後ほとんど使われなくなりました。サッチャーやレーガンも「新自由主義をやるぞ!」なんて言ってません。

 ところが1990年代頃から左派のレッテル貼りの道具としてフリードマンらを揶揄するために使われはじめるようになりました。ソ連が崩壊し、「資本主義反対」と言いにくくなったので、「新自由主義反対」と言い換えるようになったのではないでしょうか。

 なおフリードマンが新自由主義という語を使わなくなったのは、おそらく単に自由主義という語で事足りると思い直したからでしょう。こういった点からもフリードマンを新自由主義者と呼ぶのは奇妙な話だということがわかると思いますし、これを学問的な用語として使うのは避けるべきです。「新自由主義が~」と書いてある本があったらそのまま閉じたほうがいいでしょう(笑)。

 ――かたや斎藤氏の本には「新自由主義」というフレーズがこれでもかというくらい出てきます(笑)。

 柿埜 何が悪いのかということをきちんと定義しないまま、一方的に新自由主義だからけしからん、というのは自分の好き嫌いを論じているに過ぎませんし、この語を使ってあれこれ言ったところで反論のしようもないので、新自由主義という言葉で他者を揶揄するのは知的に卑怯な行為だといえます。



70年代のライフスタイルは健全だったのか?

 ――斎藤氏は脱成長社会の実現を目指すために1970年代の社会に戻ることを提案しています。ところが斎藤氏が描いている70年代のイメージは非常に曖昧であり、また彼は1987年生まれだから70年代をリアルで知らないはずです。どうして斎藤氏が70年代を引き合いに出したのか、柿埜さんはどうお考えになりますか?

 柿埜 なぜ70年代なのか、確かに本文中で説明していませんよね。斎藤氏は自身の本の98頁でこのことに触れた一節に脚注※26を振っただけです。その脚注で、ナオミ・クライン著『これがすべてを変える――資本主義VS.気候変動(上・下)』の上巻126頁を明示していますが、ここでクラインは次のようなことを述べています。「一九八〇年代に消費が狂乱のレベルに達する以前の一九七〇年代のライフスタイルに近い形の生活に戻る必要がある」。では、なぜ70年代に戻るべきなのか。この本のなかでたびたび参照されるイギリスの温暖化終末論の気象学者、ケヴィン・アンダーソン の発言を引用してクラインは前述の一節に続けてこう綴ります。「一九六〇年代から七〇年代にかけて、人々は健全でほどほどに豊かなライフスタイルを享受していた」。アンダーソンの発言を受けて、クラインはさらにこう続けます。「市民のためのスペースづくりや体を動かす活動、コミュニティの構築が奨励され、空気や水もきれい になる。格差の是正にも大いに役立つ」。以上のように斎藤氏が紹介したクラインの本から70年代を肯定する上での数字的な根拠はまったく挙げられていませんし、結局のところ一昔前の社会をただ美化しただけの空想的な内容だといわざるをえません。なおケヴィン・アンダーソンの主張はきわめて政治色が強いことでも知られていて、最近では環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんにも助言をしているような人物ですね。

 それこそデータからわかるように70年代は公害がひどく、光化学スモッグがずっと空を覆っていたような時代です。それに比べると現在のほうが水も空気もはるかにきれいですし、エアコンやパソコン、携帯電話なども普及して、ずっと便利で暮らしやすい社会になっています。そう考えると70年代に健全でほどほどに豊かなライフスタイルがあった、という主張は私にはブラックジョークにしか聞こえない(笑)。斎藤氏は70年代に戻るということについて、ボジョレー・ヌーボーを飲むのを諦めて、飛行機で頻繁に移動することを諦めればいいだけだから大したことはないと、さも簡単に書いていますが、現実はそんな単純な問題ではないです。

 ――今ご紹介いただいたナオミ・クラインの本の引用で「一九八〇年代に消費が狂乱のレベルに達する~」とおっしゃっていましたが、実際そうだったんですか?

 柿埜 70年代に比べて80年代の消費が飛躍的に増加したということはありません。おそらくレーガンやサッチャーによる規制緩和が進んだという政治的イメージが気に食わないというところからでている印象論じゃないでしょうか。つまりクライン的には“新自由主義”が現れる前の時代がよかった、という発想なんだと思います。



右翼的になっていくマルクス主義者たち

 ――何につけてもレーガンとサッチャーが大ボスのような扱いなんですね。そしてその経済学的バックボーンになぜかフリードマンが控えているという図式で……(笑)。

 柿埜 事実の検証がきちんとできていないですよね(笑)。ちなみに日本で新自由主義のネガティブな印象が強くなったのは、宇沢弘文先生あたりが晩年に近づくにつれてフリードマンなどを指して“新自由主義者”だと猛烈に批判しだしてからです。しかし、宇沢先生によるフリードマン批判も検証するとありえないことばかりなんですが。

 ――宇沢先生は日本でとても人気がありますよね。

 柿埜 話が多少横に逸れますが、宇沢先生が提唱する「社会的共通資本」という考え方と斎藤氏の共同体的なものを良しとするような発想はよく似ています。ところが、岩井克人先生も指摘しておられますが 、「社会的共通資本」は公共財の考え方とほとんど変わらないから、その発想は基本的にすでに普通の経済学のなかに取り入れられているのです。ですから「社会的共通資本」の発想で市場経済批判には展開できませんし、そもそも「社会的共通資本」は誰がどうやって管理するのか、という大きな問題があります。宇沢先生の論では職業倫理をもった集団が管理する、というアイディアですが、それ自体非常に抽象的ですし、その集団が既得権益保護に動いた場合、その先どう改善するかといったことにまでは考えが至っていない。結局のところ「社会的共通資本」の発想、すなわち斎藤氏の共同体論を実践したところで、晩年の宇沢先生が主張していたTPP反対のような既得権保護の動きにしかならないのですね。

 私が思うに、ソ連崩壊後のマルクス主義者の人たちの議論というのは宇沢先生や斎藤氏、あるいは白井聡氏の『永続敗戦論』(太田出版)のような著作から見て取れるのですが、左翼的というよりむしろ復古主義的で、ある意味きわめて右翼的なんですよ。それも穏健な保守ではなく、それこそ皇道派のような極右的なものです。あれも基本的に個人が私利私欲を追求するのはよくないという発想、つまり資本主義の否定ですから実はかなり近い位置にいるんですね。あと内田樹氏も最近は「天皇主義者」だと自称しているので、こういった流れはとても不気味だなと思っていて……。

 ピエール・ルミューというフランス系カナダ人の経済学者が面白いことを書いているのですが、「昔の右翼――これはフランスの右翼を指しますが――というのは近代化に反対し、自由主義的な考え方を否定していた。そして環境あるいは前近代的なものが大事だと主張していた。それは現代の左翼的発想と極めて似ていて、右翼と左翼が時間が経つにつれ逆さまになってしまった」といったことを述べています。これはかなり的を射た批評だなと思いましたし、だからこそ最近の風潮を危惧しているんです。



環境問題と経済の関係

 ――「脱成長コミュニズム」批判をふまえて、今の環境問題に対する柿埜さんのご意見をお聞かせください。

 柿埜 『人新世の「資本論」』を批判した本を書いたので、もしかすると環境問題に否定的だと思われてしまうかもしれませんが、そんなことはまったくありません。むしろ環境問題は大事な課題だと考えています。

 そもそも環境問題というのは経済学的にいうと外部性の問題なのですね。簡単に説明すると、汚染物質を排出して環境に負担をかけている人たちや企業がコストを払っていない状態を外部不経済と言いますが、これは典型的な市場の失敗です。この市場の失敗を解消するために市場経済の原理に則って、環境に負荷をかけている人たちから税金などのコストを徴収することができればかなりの問題は改善できるのです。以前は赤潮が問題視されていた瀬戸内海では水質改善の結果、今はむしろ貧栄養化問題がいわれているくらいです。このように資本主義体制の先進国では過去の甚大な環境汚染の大部分が解消されたので、今度は温暖化に端を発する気候変動問題を次の課題として設定しているのです。

 ところが、先ほど述べたケヴィン・アンダーソンのように気候変動による過激な終末論を唱える方たちというのは、飛行機に乗ること、肉を食べることを否定し、あるいは子どもをたくさん作ることが環境に大きな負荷をかけ悪影響をもたらす、という話をする人すらいます。そしてこのまま手をこまねいていれば近い将来人類は滅亡する、だから人びとの行動を制限して環境を守るべきだ、という結論に結びつけるのですが、これは明確に間違いだと思います。それこそ温暖化脅威論の代表的な学者であるマイケル・マンですら最近書いた論説のなかで、「温暖化懐疑論者にも問題があるが、それと同じくらい温暖化終末論者も非常に問題である。温暖化によって人類が滅亡するという主張は大きな間違いであるし、そもそも私はそんなことを言っていない」 という趣旨のことを書いています。温暖化終末論を否定することによって、温暖化懐疑論や温暖化否定論といったものに結びつけられるのは私としても本意ではないですし、温暖化について真剣に議論している学者が出している様々な被害の推計を参考にしつつ、炭素税のような形でコストを負担してもらいながら、どういった行動を取るかを各人に委ねる。こういった穏健な温暖化対策こそが望ましい社会をつくるひとつの鍵になると考えています。

 ――外部性の問題というのはピグー税の話ですよね。つまり100年近く前に経済学のなかですでに解決方法は提示されている。

 柿埜 おっしゃるとおりです。斎藤氏の本によって経済学が気候変動問題というまったく未知の課題に直面しているという認識がそもそも間違いであって、気候変動自体は典型的な外部性の議論ですから、経済学的には100年くらい前にすでに解決策が提示されている自明の問題に過ぎません。斎藤氏は市場経済が外部に負担を押し付けて云々と述べていますけれども、それは経済学の教科書的な考え方と真っ向から衝突する間違えた主張なんです。

 今回「脱成長コミュニズム」は危ない考えだ、という批判を1冊まるまる使って書きましたが、いかんせん資本主義や経済成長に対してネガティブなイメージを抱いている方が多い印象を受けるんですね。でもそれはすごく不幸なことです。むしろマイノリティや環境などの社会的な課題に向き合おうとしている方たちにこそ資本主義や経済成長の意義というものを正しく理解していただきたいですし、資本主義という土壌があるから民主主義は花開くのだということは今後も伝えていきたいです。(おわり)

★かきの・しんご=高崎経済大学非常勤講師。学習院大学大学院経済学研究科修士課程修了。主な論文に「バーリンの自由論」「戦間期英国の不況に関する論争史」など。著書に『ミルトン・フリードマンの日本経済論』がある。1987年生まれ。