新天理図書館善本叢書「連歌俳諧」全六巻(八木書店)刊行!! カラー版で味わう<芭蕉・蕪村の名品>

文学・歴史・美術横断、芭蕉資料「鯉屋物」と寺村百池旧蔵蕪村資料

芭蕉の造形感覚 句の世界と絵画的なるもの(井田 太郎)

<芭蕉と書画>
 松尾芭蕉自身による画業は、晩年に比較的集中している。森川許六(芭蕉の絵画の師)が芭蕉に入門したのは元禄五年(一六九二)と遅く、芭蕉が大坂で歿するのは同七年(一六九四)という事情もあっただろう。「「長嘯の」発句自画賛」(天理図書館蔵)などに掬すべき味はあるのだが、画技はお世辞にも巧いといえない。
 一方で、一番右に「元日やおもへばさびし秋の暮」(延宝末年~天和年間か)、一番左に「ほうらいにきかばやいせの初便」(元禄七年か)、計五枚の短冊を略々年代順に貼った「歳旦発句短冊集」(鯉屋物・図1)をみれば、書風を意識的に変遷させてきたことがわかる。

図1)松尾芭蕉「歳旦発句短冊集」(天理図書館蔵)

<書風と内容>
「枯枝に・笠やどり画賛」(早稲田大学図書館蔵)をみれば、書風の使い分けも確認できる。芭蕉は右に大きく「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」(A)、左にかなり小さめに「世にふるは更に宗祇のやどり哉」(B)と書くが、A・Bの書風から受ける印象は少し異なる。Aは見得を切るように漢字を大きく、ひらがなを連綿で小さく書く。これに対して、左は「笠やどり」と題する長い文章のあと、Bが置かれる。漢字とひらがなのサイズの差は、Aほど顕著でなく、均一に近い。
 AとBとを異ならせた理由としては、画面における書記可能なスペースの問題もあろうが、採用した書風と発句の内容とが相関するからだろう。というのも、芭蕉においては、字余り句と漢詩文調は緊密に結びついてきたが、これを記す書風がAの書風で、「櫓声波を打て」短冊(出光美術館蔵)が代表的な例である。懐素「自叙帖」(國立故宮博物院蔵)など、狂草にもどこか通じ、中国や中国につながる禅林のイメージを意識している。
 この絵画は他人の筆である。絵の右部分は中国の枯木寒鴉図の画題を彷彿とさせ、左部分は西行のような法体が佇む。いわば、芭蕉は左右の主題を〈漢〉と〈和〉とそれぞれ理解し、〈漢〉に結びつく書風としてA、〈和〉のそれとしてBを対比的に採用したと考えられる。もっとも、これは他人の絵画に加えた賛で成功した例であり、自画賛の場合はどうだろうか。

<芭蕉の絵画>
 「「あかあかと」発句自画賛」(鯉屋物・図2)をみてみよう。画面上部に「あかあかと日はつれなくも秋の風」と認め、赤い太陽、その前に萩を淡彩で描いたもので、杉山杉風の所望で制作されたと推定されている。附属する杉風筆の添状には、この発句が公家たちに激賞されたと縷述される。発句自体は、元禄二年(一六八九)七月の吟と考証。自画賛の制作自体は、筆蹟から元禄四・五年かとされており、晩年の染筆ということになる。
 現在は行方不明だが、初期の門人高山麋塒の旧蔵品など、類作が二点備わり、芭蕉自身が使い回していた形跡もある。当人も気に入っていたようであるが、周辺に需要があったからこそ、使い回しというかたちで供給し、流通させていたと考えられる。  さて、どこが賞美されたのか。杉風は添状で「絵もかるがる出来たる也」と評を加えている。作品に即すれば、淡彩で、あっさりした点を誉めていることになる。「晩年の芭蕉の句風、〈かるみ〉に対応するものなのだ」と、余白で述べたようなコメントとなっている。いってみれば、俳諧に隷属するものとして、絵画を評価している。
 後年、与謝蕪村は、〈俳画〉に相当する絵画のことを「はいかい物の草画」と呼んだ。本作は「草画」、すなわち簡単な絵という要件と合致する。しかし、今日の〈俳画〉のぼんやりした概念の輪郭に照らせば、発句と絵画の距離があまりに近すぎる。かように技術的な限界があるので、杉風のような擁護的コメントもでてくるのだろう。

図2)松尾芭蕉「「あかあかと」発句自画賛」(天理図書館蔵)」

<武蔵野図と帰属意識>
 画力が舌足らずとはいえ、折角、自画賛が守り伝えられてきたのに、これでは芭蕉の内的世界や造形感覚を窺っていることにはならない。 実は、「「あかあかと」発句自画賛」を図像的に検討すると、「武蔵野図屛風」と総称されるものに似ていることに気づく。「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」という和歌が背後に漂うものだが、このうち、左右両隻にわたって秋草を描き、左右に日月を配するタイプを「日月秋草図屛風」(シカゴ美術館本、藤田美術館本、根津美術館本など)と呼ぶ。このうちの太陽を前に秋草が描かれる隻は、芭蕉を彷彿とさせる。
 さらに、月を前に秋草が描かれる逆の隻と似る、芭蕉の自画賛もすでに紹介されている。こちらは月の前に萩を描く。表記は異なるが、「白露もこぼさぬ萩のうねり哉」の自画賛で、署名が「芭蕉翁画」のもの、「武陵芭蕉画」のものの二点(ともに、個人蔵)存する。太陽と月の軸を併置すれば、芭蕉個人の造形感覚のなかで、武蔵野図として円環を構成していた可能性さえ拓けてくる。画題を集成した版本などで、武蔵野図を目睹していたと考えていいだろう。
 この「白露も」は、元禄六年、深川にあった杉風の別荘採荼庵で萩をみての一句。住国併記型署名が地方での染筆に多いことに鑑みれば、芭蕉は武蔵国江戸(武陵)の俳人として、武蔵野図のバリエーションを地方で流通させていたことになる。自らの帰属意識という内的世界の一端が、幾星霜珍重されてきた資料の彼方から、生き生きと蘇ってくるようではなかろうか。
(いだ・たろう=近畿大学教授・近世文学)