新天理図書館善本叢書「連歌俳諧」全六巻刊行!!
カラー版で味わう 連歌・西鶴の名品

文学・歴史・美術横断、連歌の名品『集百句之連歌』他、西鶴の自註絵巻・自画賛等

俳諧師西鶴と自筆資料(大橋正叔)



俳諧師西鶴と自筆資料 大橋正叔

 新善本叢書『西鶴自筆本集』は天理大学附属天理図書館綿屋文庫所蔵の西鶴自筆俳諧関係資料を掲載する。

 井原西鶴(一六四二~九三)は『好色一代男』に代表される浮世草子作者としては著名であるが、俳諧師としての活躍は一般にはあまり知られてはいない。また、書画にも優れた技量を持つが、俳諧師西鶴の自筆資料は同時代の芭蕉に比して少ない。自画賛や手紙を例に取って見ても、芭蕉の自画賛は二十九点、手紙は一四二通が『芭蕉全図譜』に載るが、西鶴自画賛は十五点ほど、手紙は七通しか知られていない。

 西鶴は初号「鶴永」、十五歳から俳諧を学んだというが、その師承関係は、出自と同じように明らかではない。三十二歳の寛文十三年(一六七三)二月に大坂生玉神社で万句興行をなし、「阿蘭陀流」と誹謗された自ら一派の俳諧を顕示し、大坂俳壇にその存在を示す。新興の西山宗因流俳諧に傾倒し、延宝元年(一六七三)冬には宗因の号「西翁」より一字をもらい「西鶴」と改号。宗因流俳諧は、後に「談林」と総称され、江戸・京・大坂に旧来の貞門俳諧と対抗する派をなす。貞門が嫌う「無心所着」を談林では本意とすると公言し、「心付」を手法に、俳言の拡大や詞の連想を活用し、「ぬけ」や「飛体」の付合を用い、奇矯さを好んだ。貞門との俳諧観の相違は両者の間に長期の論争を引き起こす。西鶴はこの宗因流俳諧の顕彰に努め、大坂を代表する活躍をなすが、西鶴には、談林の行き過ぎた俳風とは一線を画する、独自の中庸的な俳諧観があり、論争に加わることはしなかった。

 一方、早口俳諧と評される展開の早い西鶴の俳風は、千六百句(延宝五年五月二十五日)独吟興行を契機に、一昼夜に何句を詠むかを競う矢数俳諧の流行をもたらす。四千句(延宝八年五月八日)の記録を達成し、挑戦者を振り払うが、俳諧自体は当時の俳風が気に添わず疎遠となっていく。天和二年(一六八二)三月二十八日に宗因が没し、同年十月には『好色一代男』が刊行され、西鶴の創作意欲は浮世草子へと移る。翌年六月五日には二万三千五百句という驚異的な独吟をなし、矢数俳諧に不朽の名を残すが、さらに俳諧からは遠ざかり、晩年まで浮世草子の著作は続く。俳諧へは元禄三年(一六九〇)頃から諸俳書に詠句が見られ、同四年八月刊『俳諧石車』で復帰が示される。

 復帰後の成果として、西鶴自らが自身の俳諧を語る『西鶴独吟百韻自註絵巻』(次ページ図4)が特筆される。句意を承けた挿画十図と共に百韻の付合を自註によって解説、浮世草子との関りも窺われ、晩年の西鶴を語る最良の資料でもある。『西鶴自筆本集』では従前の錯簡を正した精細なカラー版で全巻を掲載。また、同書には『俳諧之口伝』や『西鶴評点政昌等三吟百韻巻』等門人への指導を示す資料や地方の俳諧愛好者との間でどのような交流がなされていたか、その実態を伝える『胴骨三百韻』や三通の書簡を掲載する他、発句画賛七点、短冊十点の書画資料を掲載する。(おおはし・ただよし=天理大学名誉教授・近世文学)