真の“リベラル”経済学のススメ

対談=岩田規久男×柿埜真吾

脱成長の誤謬/「見えざる手」を修正する


脱成長の誤謬

 柿埜 日本の“リベラル”、あるいは“新自由主義”批判者は、弱者保護に熱心なように見えて、実際のところは既得権益を保護するための活動に勤しんでいるだけ、ということですね。日本の大手メディアの報道を見ていても、新規参入する側の企業が利権を得ているように報じて、もともとある既得権益を無視しています。「行政が歪められた」とかなんとか言って、規制によって犠牲になっている消費者の利益には無関心です。

 批判の矛先がまったく逆のあべこべの状態ですし、経済学の初歩を理解していないから、きちんとした議論にもならない。

 岩田 “新自由主義”っていうワードが、もはや水戸黄門の印籠のようなものになっちゃっていますしね。そもそも、何をもってして“新自由主義”なのか、ということなのですが、私は経済的観点からふたつの意味合いを考えています。

 ひとつは、今のアメリカのように税金のフラット化を進める政策を指した新自由主義、もうひとつは、規制改革を進める政策を指した新自由主義。どちらかというと後者の方が新自由主義の話で引き合いに上がることが多いのですが、私はもう少しきちんと税制を是正する議論を進めたほうがいいという立場ですから、柿埜さんよりは左寄りです(笑)。

 柿埜 そうですね(笑)。私はどちらかというと、資本主義を機能不全にさせている規制をなくし、経済成長させなければだめだ、という議論に重点を置いています。格差の問題も、私は参入規制や特定産業への利益誘導など政府の失敗が大きいと考えます。ですが、もちろん、ご指摘のような税制の問題も無視していいとは思っていません。

 ともあれ、再分配政策をどう考えるにせよ、弱者の福祉を考えれば経済成長が不可欠であることは明らかです。経済成長しないことには、やがて年金も社会保障も破綻してしまいます。社会が貧しくなれば一番苦しむのは弱者です。にもかかわらず、なぜこんなに脱成長論が幅をきかせているのか。それは、おそらく脱成長はゆっくり歩くイメージで、成長はせわしなく歩くイメージだからなのでしょう。のんびり歩く方が楽でいいと思っているのですね。

 岩田 日本の90年代こそ脱成長だったんですよ。では、この時代はゆっくり歩きながら前進していたかというと、前に進むどころかむしろ逆走していたわけで。

 柿埜 実際の脱成長は苦しいものですよね。そもそも、早く歩くとかゆっくり歩くという比喩自体が誤りなのです。根本的な問題は、各人が思い思いの目標を追求できる自由な社会を選ぶか、脱成長のために特定の生活様式が強制される全体主義社会を選ぶかです。たとえて言えば、個々人が自分の好きな速さで歩き、好きな場所に行ける自由な社会がいいか、全員が同じ場所に向かって同じ歩調で歩くのを強制され、違反したら厳罰に処される軍隊のような社会がいいか、ということです。

 資本主義の下では、最先端の製品を使わずに暮らしたいならそうすることは誰にも禁じられていません。ゆっくり歩きたい人はゆっくり歩けばいいし、せわしなく活動していたい人はそうすればいい。他人を侵害しない限り何でも認めるのが市場経済です。実際は、大多数の人は貧しい生活を望みませんから、変な妨害がなければ、経済は勝手に成長していきます。経済成長は人々の自由な選択の極めて自然な結果です。

 反対に、脱成長にしたいなら、人間の自然な活動を無理やり抑え込む必要があります。実際、脱成長論者は飛行機に乗るな、広告を規制しろとか、とにかく生活を事細かに統制しようとしていますよね。脱成長社会というのは、コロナ禍で行われた統制以上のさらに強烈な行動制限をイメージしてもらえればわかりやすい。それはものすごく貧しい、画一化された暮らしを強制する暗黒社会でしかないのです。

 私は単にその動きに反対しているだけなのですが、日本の“リベラル”の人たちは脱成長コミュニズム社会のことを、気楽な隠居暮らしだと錯覚していて、その中でみんながゆっくり楽しく暮らすことができるハッピーな世界だという幻想を抱いているんです。

 脱成長論は、岩田先生が本書で批判している「人間の本性を変える」発想の全体主義です。今までのあなたの生き方は間違っているから、こうすれば真の幸せが手に入ります、といった人びとの感情に訴えかける人生哲学を押しつけです。個人の趣味の問題として清貧の生活を送りたいならそれは勝手ですが、脱成長論者は自分たちの選択を全員に強制して当然だと思っている。

 でも、その先には自由も多様性もない社会しか訪れない、ということを全く理解していません。

 岩田 どうしてこうなってしまっているかというと、日本の大学では、経済学の基本中の基本である価格がどう決まるかが説明できないマルクス経済学がいまだに教えられているからでしょうね。マルクス経済学がこれほど生き残っている国は先進国ではありませんよ。

 それもこれも原因は、大学という競争原理が働かない閉鎖社会にあるからなのですが。ある先生がマルクス経済学の講座を持っている、と。すると今度はその先生の弟子筋が教えを継承してまたマルクスを教える。その流れが連綿と続いて、今に至っているから、いつまでたってもマルクス主義が大学からなくならない、という構造なんです。

 一般的な経済学で教えているモノの価格の説明は、消費者側がその商品に対してどれだけ満足と効用が得られるかに応じて、生産者側が価格を上下させ、そこが一致した点が価格になる、という需要と供給の均衡の話です。

 ところが、マルクスに言わせると、商品の価格というのは、その商品を生産する上でどれだけ労働時間が費やされたかどうかだ、と。

 たとえば、Aの商品は1ヶ月で作られ、Bの商品が1年かけて作られたとしましょう。マルクスの理論に従うと労働時間の見合いでBの商品の価格のほうが必ず高くなります。ところが、現実にはAの商品の方が高いとなると、その時点でマルクスは首をかしげざるを得ないんですね。

 柿埜 今、岩田先生がおっしゃったようにマルクス的な発想で商品を評価しても、現実の価格は説明できません。そこで、マルクス主義者は、労働には質の違いがあり、Aを作るのに必要な労働はBを作るのに必要な労働の10倍の労働価値があるのだという。

 しかし、Aの労働がBの労働の何倍の労働価値があるのか一体どうやったらわかるのかというと、市場で実際の商品価格を見るまでは判断のしようがない。商品価格を説明するはずの労働価値自体が、商品価格を見なければわからないというのですから、こんな議論は破綻しています。労働価値説の他の問題点は長くなるのでいちいち触れませんが、他の生産要素を無視して労働だけが価値を生むというマルクスのドグマの矛盾はベーム=バヴェルクという経済学者が既に1890年代に徹底的に論破しています。

 マルクス経済学は価格を説明できないだけでなく、サービス産業についても正しく理解していません。マルクスによれば、サービスはモノに体化されていないから価値を産まないのです。

 昔のソ連を中心とした社会主義圏ではマルクスの思想に基づいてMPS(Material Product System)、物的生産体系という国民経済計算にあたるシステムを使っていたのですが、MPSではサービス産業は完全に無視されていました。

 今の日本の経済の7割はサービス産業ですし、先進国の経済はとっくの昔にサービス産業中心になっています。サービスに価値を認めないマルクスの発想では現代の経済は全く理解不可能です。

 岩田 だったら、マルクスも自分の価値を説明できませんね。なぜなら、本というのはそのモノ自体に価値があるのではなくて、そこに記された情報に価値があるわけであって。情報とはまさにサービスそのものです。だから、マルクスは自分で自分の本に価値がないと言っているに等しい。

 柿埜 ところが、マルクス本人は自分の本には大変な価値があると考えていました。自分に都合のいい学説を考える才能はあったようですね(笑)。

 結局、マルクス経済学は古色蒼然たる過去の学説に過ぎません。マルクス主義が今日も生き残っているのは科学的仮説としてではなく、単にイデオロギーとして訴える力があるからでしょう。要するに、「人間の本性を変える」べきだと説いているだけですから、それでは世俗の新興宗教を作って教えを説いていると同じです。

 岩田 ところが、みんなつい宗教に頼りたくなってしまう。

 柿埜 でも、そんな話に終始しているだけでは、実際の社会問題をなにも解決もできません。ドラマティックに人間性を変えようとする宗教的な主張は一見魅力的ですが、無理やり人間の本性を変えようとする社会は必ず不寛容な全体主義社会を招くことになります。だから、岩田先生も私も「ゲームのルール」を是正すべきだと言っているわけです。



「見えざる手」を修正する

 柿埜 今の脱成長やマルクスブームと、2000年代初めに流行した構造改革主義は一見対極にありますが、実は似ている点があります。どちらもゲームのルールを変えることではなく、「人間の本性を変える」反経済学という点では似たもの同士です。日本ではなぜか国際的には標準的な経済理論であるリフレ派の主張は人気がありません。

 リフレ派というのは、日本で長年にわたって続くデフレという「ゲームのルール」をマクロ経済政策によって変えて、経済を活性化させようという考え方です。

 これに対して、構造改革主義者は、日本経済の停滞は、従来の日本的経営が間違っているせいだ、経営者が無能だからだといいます。日本経済復活のためには、「小手先の」マクロ経済政策は有害で、大事なのはイノベーションを起こすことだという。そのためには、IT化が大事だとか年功序列を廃止せよとか、あれこれと経営者に注文をつけています。日本人の価値観を大転換するべきだというようなもっと大きな話をする人もいます。

 イノベーションは大切ですが、だからといってマクロ経済政策を無視していいわけはありません。経営者は自分が直面している環境の下で、それなりに合理的な判断をして経営しているはずです。イノベーションを妨げる規制があるなら、その撤廃を主張するのはもっともですが、経営者にあれこれ指図したり、まして日本人の価値観がどうのと議論したりするのは経済学者の仕事ではありません。そんな悟りを開くような大げさなことをしなくても、デフレでない他の国は普通に成長できています。構造改革主義者がご自分のお気に入りのビジネスモデルを経営者に売り込むのは自由ですが、それは経済学者ではなく経営コンサルタントの仕事でしょう。

 岩田 それを実際に会社経営したことがない経済学者がやっちゃっている。

 柿埜 そんなに素晴らしいビジネスモデルをご存じなら、ご自分が経営者になってはどうですかと言いたいですね。素人が経営者に経営の仕方をお説教するのはおかしな話です。

 ところが、こういった話も自分は何をすべきか、といった人生哲学的な部分があって、変に主体性に訴えかけてくるところがあるから、人の心をうつのでしょう。

 岩田 繰り返しになりますが、経営者がイノベーションに勤しんで、日々成長を実感できる企業を作るためには、まずその国の経済環境が安定的でなければいけないんです。これまでは日本の経営者が概して無能だから成長できなかったのではなく、デフレ下で経済環境が悪すぎたからそれができない状況だった、という前提を理解しないといけません。

 経済の安定的な成長局面というのは、2%くらいのインフレ率で、かつ完全雇用も達成した状況です。さらに、規制改革も行って余計な既得権益を取り除く。そうすれば企業のイノベーションは自然に起きますし、人手も足りない状況だから、やがて実質賃金も上昇してくる。

 そのための仕事をするのが政府と日銀の本来の役割なんです。ところが政府はその逆の規制を強化することに一生懸命になっている。その問題をなんとかしなければいけないから、みんなで声をあげていこうと言っているだけなのに、新自由主義が駄目だ、市場原理主義はけしからん、みたいな話ばかりで、そんなバカなことを言っている暇なんてないんです。

 そもそも、市場にすべてを委ねろ、なんて国際的なスタンダードの経済学の現場では誰も言っていません。

 アダム・スミスは「見えざる手」で何を言っていたか。みなが利益を追求していけば、やがて公益になる。これが市場の機能の本質なんです。そして「見えざる手」が正しく働くためには市場が常に競争的でなければならない。ところが、現実の市場のなかにはそのまま放置するとその機能を阻害するものが出てくる。それが「市場の失敗」と呼ばれるもので、これはいかなる経済活動にも付いてまわるものなのですね。

 たとえば環境問題では現在「見えざる手」が正しく機能していません。そもそも、地球環境が悪化したことで生じるデメリットは現在世代よりも将来世代が被るので、本来は将来世代に対するリスクを負担し、取引する市場を用意する必要がありますが、それがない状態です。つまり、気候変動のリスクに応分の価格が付いていない、ということです。

 この問題を解消するアイディアが、再三申しあげている炭素税です。あるいは排出権取引もそう。これらのプランを導入して環境問題に関する「見えざる手」を是正する、というのが現在の経済学における最適解ということです。

 柿埜 フリードマンも環境問題については、汚染物質への課税が望ましいと説いています。これは温暖化問題に当てはめれば炭素税です。外部性による経済的損失を課税で補填する、というアイディア自体は古くからあります。フリードマンも、環境問題は未知の問題ではなく、経済学の長い伝統が既に答えを出している問題だと指摘しています。

 岩田 金融市場に対して自動的なレバレッジ規制をかける、という発想も金融市場における「見えざる手」の修正という意味合いです。アダム・スミスが予見できなかった現在の膨張する信用経済を適切に是正し、正しく機能してあげるようにしなければリーマン・ショックのようなことが再び起きかねません。

 このように、手を加えてあげなければいけない仕組みはいくらでもあるわけです。今、何が機能不全を起こしていて、いかに手を施せば正しい機能を取り戻すか、ということを議論しているだけであって、これのどこがなんでもかんでも市場任せにすればいい、という話につながるのか、まったくわかりませんね。