創作か 盗作か 「大東亜共栄圏」論をめぐって
著 者:原 朗
出版社:同時代社
ISBN13:978-4886838704

五〇年前にさかのぼる事件

研究のモラルを教示するとともに、多くの問題を投げかける

萩原充 / 釧路公立大学名誉教授・経済史
週刊読書人2020年6月5日号(3342号)


「事件」は五〇年前にさかのぼる。当時、東京大学経済学部助手であった著者は、A氏(大学院生)の来訪を受ける。専門分野の近い二人はすぐに意気投合し、共同で研究会を組織し、学会での共通論題の報告を準備する。その準備をリードしたのは年長の著者であり、A氏に対し準備原稿だけでなく、研究上のアイデアも披瀝している。
 
ところが、学会報告を経てその内容が論文として掲載される前に、A氏は五〇〇ページを超える著書を出版するが、それは著者によれば、自らの研究の多くを盗用したものであった。驚いた著者ではあったが、混乱を恐れてその事実を公表せず、今までの研究分野から手を引く。
 
それから三〇数年を経た後、著者は学生に盗用禁止を訴えるため、本件を勤務校の最終講義で明らかにする。これに対し、A氏は名誉を著しく棄損されたとして、著者を東京地裁に訴える。こうして、両氏のあいだで法廷闘争が開始された。
 
本書はこの七年に及ぶ裁判を著者の側から描いた記録である。ちなみに、一審および控訴審の判決では、いずれも原告(A氏)の勝訴となっており、被告(著者)は現在、最高裁に上告中である。
 
著者の原朗(東京大学名誉教授)は、戦時日本の大東亜共栄圏に関する優れた研究を示してきた。一方のA氏すなわち小林英夫(早稲田大学名誉教授)は、盗用が疑われている『大東亜共栄圏の形成と崩壊』(御茶の水書房、一九七五年、増補版、二〇〇六年)をはじめ、日本の植民地に関する多くの著作を有する。
 
この著名な二人の争いであるが、学界の注目を集めた理由はそれに止まらない。盗用が単なる字句の剽窃にとどまらず、研究のアイデア全般に及ぶものであり、それだけに過去に類をみない、特異な裁判だからである。
 
本書のページの大半は裁判所提出文書(被告陳述書、証人意見書、控訴理由書など)からなる。そのうち堀和生(京都大学名誉教授)の「意見書Ⅲ」は原告著書の105の論点ごとに盗作か否かを考証しており、その緻密さはあたかも学術論文を読む思いである。
 
とは言え、本書は単なる裁判記録にとどまらない。研究を志す者には、論文作成に際しての作法や研究モラルを教示しており、一般の読者に対しては、成果をめぐって熾烈な競争が展開される学界の状況を垣間見せてくれる。また、学術研究に関する事案に対し、司法機関がはたして適格な判断を下し得るのかという問題も投げかけている。
 
しかし、本書を法廷推理ものと期待する読者には不満が残るかもしれない。と言うのは、本書に原告(小林側)のオリジナルの文書が含まれないため、双方の主張をもとに読者自ら判決を下す醍醐味を味わえないからである。そもそも、小林が原に無断で著書を刊行したのは何故か? いったんは謝罪したとされる彼がなぜ後に名誉棄損で原を訴えたのか? 本書になお残る疑問を明らかにするには、小林からの反論を待つしかない。(はぎわら・みつる=釧路公立大学名誉教授・経済史)
 
★はら・あきら=東京大学名誉教授・東京国際大学名誉教授・近現代日本経済史。東京大学大学院博士課程中退。著書に『近代日本の経済と政治』『日本の戦時経済――計画と市場』など。一九三九年生。