俳諧の詩学
著 者:川本晧嗣
出版社:岩波書店
ISBN13:978-4-00-024489-3

詩としての俳句の姿問う

図書館発!こんな本が面白い【書評提供:図書館流通センター(TRC)】

星雅樹 / 日光市立藤原図書館勤務(TRC指定管理者)
週刊読書人2020年4月3日号(3334号)


俳句とは何だろう。五七五の定形を守り、季語が入っていれば俳句なのだろうか。

本書には「俳諧の詩学」というタイトルがついている。まず、ここに俳句は詩であるという基本的な考え方が示されている。俳句は「世界最短の詩」などと呼ばれるが、五七五という特異な形を持つために詩とは別物と考えられがちだが、俳句は詩であり詩でなければならないという前提がこのタイトルに掲げられているのである。

著者は東大の比較文学の教授で、西洋の詩の研究などを通して広い視野から、俳句というものを考察している。しかも決して外側からではなく、俳諧連歌から俳句への流れ、芭蕉の考え方、子規による革新など俳句の内側に深く入り込んで論じている。これまで多くの俳論が書かれてきたが、詩学の視点から俳句の世界を考察したものは珍しく、その意味でも本書には特別の価値がある。

まず驚かされるのが「序に代えて」の中で展開される論考。芭蕉の「奥の細道」那須・遊行柳での句「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」についてである。これまで論争の種となり、さまざまに論じられてきた。立ち去ったのは田植えをしていた農夫、早乙女たちである、いや芭蕉ではないか、植えた人物と立ち去った人物は別だ、はたまた平畑静塔のような大家から柳(柳の精)が立ち去ったのだという論も出て決着がつかない。

芭蕉も厄介な句を遺したものだという見方もあるだろうが、本書はここに詩学の立場から光を当て、キッパリと明快な見解を示している。「芭蕉はわざとそうしている」というのである。「意味がよくわからない、決められない、そういう面白さと可能性にこそ、芭蕉は賭けていた」のだと。芭蕉ほどの人物がこのことに気づかなかったはずはない、という主張には反論の余地もあるだろうが、著者は詩というものの本質から迫ることでこの説を裏付ける。「詩というものの特徴は二つある。表現の意外性と意味の不確定性だ」「まずどこか引っかかる、へんな言い方をすることと、それから、その意味がよくわからないこと――これがそうだと意味がはっきり断定できないことだ」。「田一枚」の句は確かにこれらの条件をすべて満たしているのである。

切字に関しての考察にも思わず目を見開かされる。切字には「や」「かな」「けり」などがあるが、文末に位置する「かな」「けり」と、文を途中で切る「や」を同列に論じていいのだろうか、という当然の疑問が掲げられ、切字が係り結びのように働くことなど独特の「切字論」が展開される。また、芭蕉とボードレールの共通性から論じた「『不易流行』とは何か」、桑原武夫への反論「第二芸術論を疑う」など、俳句にかかわる問題をどう理解すべきか、鮮やかな切り口で論じている。

本書は、俳人たちに「詩になっているか」と自作の検証を促し、巷に氾濫する月並み俳句撲滅の道を示す刺激的な内容を含んでいる。