幼な子の聖戦
著 者:木村友祐
出版社:集英社
ISBN13:978-4-08-771709-9

モザイク状に入り混じる葛藤と矛盾

単純に「東京=悪」「東北=善」とはならない

藤田直哉 / 批評家
週刊読書人2020年4月3日号(3334号)


木村友祐は、二〇一〇年代以降の「地方文学」ブームとでも言うべきムーブメントの一角で、着実な成果を残してきた書き手である。青森をルーツに持つ彼は、東北性を自ら背負い、「標準語」「東京」が象徴するこの国の支配的な文化への、異議申し立てと、オルタナティヴの模索を行ってきた。とはいえ、単純に「東京=悪」「東北=善」とはならない。中央に搾取される地方、という構造でもない。地方の中に東京的な価値観が混ざりこむし、支配的なものに反抗するものの中にもまた腐敗や矛盾が懐胎している。そのような複雑に入り混じる葛藤と矛盾をつぶさに描くことこそが、木村の作家的な美徳であり、日本文学における彼の固有な位置である。

『幼な子の聖戦』の表題作は、青森県のある村を舞台にしている。そこで古臭く中央からの影響の強い「栄民党」の候補と、YouTubeなどを駆使するクリエイティヴな感性を持った新しい候補との選挙戦を描く。主人公は不倫をしているような「政治的に正しいわけではない」村会議員の男で、若い候補の友人であるにも関わらず、弱みを握られて栄民党に協力することになる。どぶ板的なことや、不正のような生臭いことが具に描かれていく。

木村の見事な点は、地方における、因習的な古さを描くだけではなく、クリエイティヴな若い人間の姿を活写できることだ。たとえば二〇〇九年のデビュー作『海猫ツリーハウス』でも、青森の田舎にツリーハウスを作ったり、アーティスティックでクリエイティヴな町おこしをしようとする若手たちの群像が描かれていた。それが、彼の作品の「現代性」であり、更新されつつある地方のダイナミズムが作品に宿るポイントである。そこに、これまでの日本文学が描いてこなかった「リアル」がある、と言ってもいい。

収録作「天空の絵描きたち」は、東京のビルの窓を清掃する者たちについての小説である。たとえば『野良ビトたちの燃え上がる肖像』もそうだが、木村は東京を描いても、周縁というか、キワのようなところで、生が死に近い状態で生きる人々を描こうとすることが多い。ダイレクトで、自然や世界と密接で直接的な生を営むという「感覚」あるいは「文化」に魅せられつつ、その現在の有様を検証しようとしているように見える。「天空の絵描きたち」の主人公も、死が身近なその仕事を、仕方なしにではなく、自ら選んで行っているのだ。

ダイレクトな生への憧れは、『イサの氾濫』でも描かれた。東京での仕事に疲れ、夢破れて帰省した主人公は、暴れん坊の叔父を通じ、蝦夷の血に自分が繋がっているのではないかという想像を展開し、慰めを見出そうとする。おそらく彼の考える「東北性」とは、自然に対して直接的で、感情や情緒がダイナミックな美学や生のあり方である。

東北の中に東京的なものが入り込むように、東京の中にも東北的なものが入り込む。モザイク状になったそれを、木村は文学でなんとか捕まえようとしている。(ふじた・なおや=批評家)

★きむら・ゆうすけ=小説家。二〇〇九年『海猫ツリーハウス』で第三三回すばる文学賞を受賞しデビュー。著書に『聖地Cs』『イサの氾濫』『野良ビトたちの燃え上がる肖像』『幸福な水夫』など。一九七〇年生。