一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》
著 者:宮下規久朗
出版社:筑摩書房
ISBN13:978-4-480-68369-4

謎多き名画に込められた豊かなメッセージを読み解く

荻野哉 / 大分県立芸術文化短期大学美術科准教授・美術史
週刊読書人2020年4月17日号(3336号)


本書は、長年カラヴァッジョ研究に携わってきた宮下規久朗氏が、卓越した技術と宗教への独自の理解に基づくこの画家の作品の面白さや魅力を、一六〇〇年にローマの教会で公開された《聖マタイの召命》を軸としてまとめたものである。
 
「あとがき」にもあるとおり高校生レベルの読者を主な対象としているため、宮下氏がすでに著したカラヴァッジョについての多くの研究書に比べると、語り口は確かに平易である。だが、カラヴァッジョの時代と美術を概観する第1章に目を通した者は、そこに見られる基礎的かつ普遍的な知識の語り口が、高度な専門性に裏打ちされていることにすぐさま気がつくだろう。つづく第2章では、従来の宗教画にはない劇的な明暗効果と迫真性を持つ《聖マタイの召命》に関して、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の空間にやはり置かれた《聖マタイの殉教》と《聖マタイと天使》の成立過程にも目を配りながら紹介される。さらに第3章では、キリストによって「私についてきなさい」と呼びかけられる徴税人のレビ(後のマタイ)が、街の盛り場のような日常的な設定のもとでいかに表現されているかについて、近年の研究成果をふまえつつ詳細に考察される。この「マタイ問題」の奥深さに誘われた大学生は、美術史を専攻する者であれ、あるいは制作のかたわら美術史や理論を学ぶ者であれ、真の名画とは(歴史や社会というコンテクストの中に置き直されたうえでの)多様な解釈をうながす存在であることを、あらためて実感するはずである。
 
宮下氏が本書で若き読者に強く訴えたかったのが、《聖パウロの回心》や《聖ペテロの否認》などが比較・検討される後半部でライトモティーフのごとく登場するプロテスタント的な召命観であることも、見逃してはならない。「人生を彩る節目には必ず重要な選択があり、たとえそれがたまたま決まったものだったとしても、悩んだ末に自ら選んだものだったとしても、多くの場合、実は神の呼びかけに応えたものにすぎない」という第5章の一節を、「就活」という名の進路選択に多大な労力を費やさざるをえない昨今の学生は、どう受け止めるだろうか。そして、職業や仕事を表す言葉は、欧米では神による「召命」と同じ単語になる――英語のcalling(天職)がまさに象徴的だろう――という事実を、教育の場で進路指導にあたる者はどの程度意識できているだろうか。「与えられた環境で努力すること、どんな運命でも受け入れてその中で少しでも自分を向上させること」があらゆる人間の普遍的な倫理であるという思想を、「誰もがマタイになりうる」という解釈を許容する絵画に込められた最も豊かなメッセージとして受け取る宮下氏の姿勢に、西洋美術史を講義する一教員として深く共感した。(おぎの・はじめ=大分県立芸術文化短期大学美術科准教授・美術史)

★みやした・きくろう=神戸大学大学院人文学研究科教授・美術史家。著書に『モチーフで読む美術史』『食べる西洋美術史』『刺青とヌードの美術史』『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』『知っておきたい世界の名画』など。一九六三年生。