渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想
著 者:岩井秀一郎
出版社:小学館
ISBN13:978-4-09-388747-2

「目立たぬ武人」の物語

信仰に根差した娘・和子をめぐる終章

竹内修司 / 元編集者
週刊読書人2020年4月24日号(3337号)


事件に関する書籍は膨大で、「二・二六産業」という言葉まであるという、と著者自身が書いている〝関連書〟の新作である。この力作の特色は、渡辺錠太郎という、当時派手派手しく存在を主張し合っていた陸軍の将星たちの中の「目立たぬ武人」でありながら、このクーデターの標的六人の一人であり、実際に殺害された重臣三人の一人となってしまった人物に焦点をあてたところにある。
 
「この男が生きていたら昭和史はもう少し変わっていたのでは?」との評価もあるのは、彼が第一次大戦の最終末期に欧州に派遣され、戦勝国も含めた欧州全土の戦火による荒廃・疲弊をつぶさに見聞して、独自の戦争観を培い、披歴したからだ。この大戦では、銃砲器の発達、戦車、毒ガス、火炎放射器の導入などによって敵味方の距離は遠くなり、飛行機からの攻撃が加わって、戦場の様相は立体的となり、「攻撃精神の誤用」や「精神万能主義」は通用しない。「これからの戦争は軍隊と軍隊とだけの、生易しいものではない、勝っても負けても国民の全てが悲惨のどん底に陥る。日本も世界の列強にならねばならぬが、しかし、どうでも戦争だけはしない覚悟が必要である」などと。
 
渡辺は愛知県の貧しい農家に生まれて中学校への進学ならず、働きながら独習・独学を続けて徴兵後、陸軍士官学校を受験して合格する。成績四位で卒業、隊付将校勤務の後、陸軍大学校に進み、一九〇三(明治三六)年、首席で卒業。無類の勉強家で、俸給の大半は和洋の書籍に消えた、という伝説の持ち主。日露戦では旅順攻撃に参加して負傷。その後栄進を続け、昭和六年に陸軍大将。
 
この前後、世界大恐慌起こり、誤てる「金解禁」が重い経済不況を招き、満州事変勃発はじめ、昭和初期に起こった様々な社会変動と庶民生活の窮乏を、政党政治・財閥・軍閥・特権階級ら〝君側の奸〟の所為として、クーデター画策に動いた中堅将校たち、これに呼応して陸軍内の実権を握ろうと動く上層部の一派、反対して合理的な軍改革を主張する一派――「皇道派」と「統制派」の対立と内部争いの錯雑を、著者は様々な資料を引用して詳述するが、正直、分かりにくい。〝学者将軍〟渡辺はこの争いには距離を置いていたことが重要。
 
昭和十年二月、美濃部達吉の「天皇機関説」が大問題となり、皇道派の重鎮・真崎甚三郎教育総監が、この説を排撃して、天皇は統治権の主体であるとする「国体明徴」論を唱えたとき、渡辺は名古屋で将校たちに訓示し、「天皇は勅語で『朕を頭首と仰ぎ』と仰せられている。頭首とは有機体たる人間の一機関である。この言葉が悪いと断定する要はない」と述べる。それから間もなく、陸軍大臣・林銑十郎は、対立する真崎教育総監を更迭して陸大同期の渡辺を据えようとして猛反発を受ける。陸相、参謀総長、教育総監の任命はこの三ポストの現任者の合意を要し、天皇の認可で決する慣例なのに、その任にある本人の反対を圧して行うのは「統帥権干犯」である、と主張。渡辺は真崎と同派のボス・荒木貞夫を論破して自ら総監となる。この二つの言動が、皇道派を支持し、天皇親政を求めて二・二六クーデターを起こした青年将校グループが、渡辺を標的の一人とした理由だった。
 
事件当日早朝、斉藤実内大臣殺害ののち、その反乱軍の一部が高橋太郎、安田優両少尉の指揮の下、荻窪の渡辺私邸を襲う。渡辺は拳銃で応戦するが、機関銃により全身二十数か所を撃たれて絶命。当時小学三年生だった渡辺の末娘・和子は、同室のテーブルの陰で一部始終を目撃した。この本の読みどころは、その和子と死刑になった安田少尉の末弟・善三郎が、事件後五十年の昭和六十一年に、被処刑将校たち十五人の菩提寺で出会い、以後、交流を続けたことを述べた終章であろう。洗礼を受け、修道女となって米国留学の後、三十六歳の若さでミッション系大学の学長となった和子は、信仰に根差した、人間の生き方を説く著書を十九冊も著しており、内には二百万部に達するベストセラーもある。善三郎夫妻と和子の親交は深まり、一歳年長の彼は彼女を「人生の師匠」と称するに至る。和子八十九歳の死まで続いたこの物語は感動的だ。(たけうち・しゅうじ=元編集者)
 
★いわい・しゅういちろう=歴史研究者。昭和史を中心とした歴史研究・調査を続けている。著書に『多田駿伝』(第二十六回山本七平賞奨励賞)など。一九八六年生。