ジュール・モヌロ ルサンチマンからの解放
著 者:永井敦子
出版社:水声社
ISBN13:978-4-8010-0307-1

死後の生を救う労作

陰影に富んだ知性、その生涯と思想

管啓次郎 / 詩人
週刊読書人2020年4月24日号(3337号)


ジュール・モヌロの名は耳に親しかった。有田忠郎の名訳になる『シュルレアリスムと聖なるもの』(牧神社・一九七四、新版は吉夏社・二〇〇〇)があったから。一九七〇年代にシュルレアリスムに興味をもった者であれば誰もがそうだと思う
 
だがモヌロについて、それ以上のことは知らなかった。一九〇八年生まれ(奇しくもレヴィ=ストロースと同年同月同日)の彼がカリブ海マルチニックのベケ(カリブ海フランス植民地を支配する植民者階級)だとは思ってもみなかったし、第二次大戦後に『共産主義の社会学』ほかの著書が国際的に一定の評価を得ていたことも、晩年にはフランスの右翼政党・国民戦線の支持者と目され、ある種の疑念を呼び起こす名として九五年に生涯を終えたことも、すべて初めて知った。
 
永井敦子による本書は、この特異な「有色ブルジョワ」の子に光を当て、その生涯と思想を概観する。マルチニックからの留学生として、名門リセのアンリ四世校で哲学者アランに学ぶ。このときの学友がジュリアン・グラック。高等師範学校を受験するが、フランス社会学の規範であるデュルケーム思想の批判により失敗した。シュルレアリスムに接近するとともに、雑誌「正当防衛」に参加。ついで三〇年代後半は、バタイユ、カイヨワらとともに社会学研究会の設立準備にとりくむ。大戦中はレジスタンスに身を投じた。
 
戦後、一九四五年に前述の『現代詩と聖なるもの』(原題の直訳)を出版。四六年にはバタイユを編集長とする雑誌「クリティック」創刊号に編集委員として名を連ねる。四九年、『共産主義の社会学』。以後も晩年にいたるまで文筆家としての活動をつづけたが、七四年に『研究集』でアカデミー・フランセーズのエッセー賞を受賞した以外には、特に脚光を浴びたことはない。
 
歴史に埋もれてゆくマイナーな知識人? しかしその足跡をよくたどれば、陰影に富んだ知性の表情が浮かんでくる。植民地の特権階級という出自を隠すかのようにして、シュルレアリスムや共産主義に接近し、また批判した。ポエジーを文学ジャンルであることから解放し、独自の聖性の社会学を追求した。表現がもつ「位置と日付」にこだわり、ニーチェ主義者としてルサンチマンを排し「聖なる怒り」に価値を置いた。ソ連の共産主義体制を中世イスラムの統治様式と比較し、全体主義批判の先駆的な論陣を張った。
 
著者はモヌロとハンナ・アーレントとの交渉、レイモン・アロンとの対比、ド・ゴールとの関係、アルジェリア問題に対する態度などにも踏み込み、彼の死後の生を救っている。気になるのはモルロが著書『悲劇の法則』(一九六九)で使った「エテロテリ」という用語だ。「ある主体が認識している自分の行為の意図と、観察者がその人の行為から理解する意図とが異なる場合があることを意味」するという。いわれてみればこれは人の世にひろく見られる事実であり、われわれの生にどこか悲劇的な色彩を与える要因でもあるだろう。
 
モヌロの夫人や子供たちとも交流を重ねた上で書かれた本書は、労作と呼ぶにふさわしい。およそ他のどんな言語にも例がないシュルレアリスム研究の一大叢書である「シュルレアリスムの25時」に、また注目すべきタイトルが加わったことを喜びたい。(すが・けいじろう=詩人)
 
★ながい・あつこ=上智大学教授・二十世紀フランス文学。著書に『クロード・カーアン』、訳書にJ・グラック『ひとつの町のかたち』など。一九六一年生。