平成椿説文学論
著 者:富岡幸一郎
出版社:論創社
ISBN13:978-4-8460-1848-1

「平成」に対する批評意識を示す

まっとうな「日本」のあり方、「通説」となるべき論点

田中和生 / 文芸評論家
週刊読書人2020年4月24日号(3337号)


二〇一九年五月、元号が「平成」から「令和」に変わったが、その「平成」は一九八九年から、ほぼ三〇年つづいたことになる。その間、世界では湾岸戦争やソビエト連邦の解体、アメリカ合衆国での同時多発テロやイラク戦争などが起こり、とても「平」らかに「成」るとは言えない状況だったが、日本もバブル経済の崩壊から出口のない不況に突入し、阪神淡路大震災や東日本大震災などの大地震を経験した。
 
本書は、そうした「平成」のあり方を映そうとする「文学論」と言っていいが、しかしそこに「椿説」という言葉が紛れ込んでいることからわかるように、単に「平成」に書かれた新しい文学作品を論じているわけではない。むしろほとんど「平成」の作品を無視し、それ以前の近代以降の日本で書かれてきた文学作品をはじめとする言葉を「平成」の時代において読み直すことで、逆説的に「平成」のあり方を浮かび上がらせようとしている。人を喰った「椿説(=ばかばかしい意見)」という言葉に、著者の時代に対する批評意識が込められている。
 
ちょうど「平成」の後半に入った二〇〇五年から〇九年にかけて書かれた文章を、本書は一四章立てで収めているが、たとえば冒頭の「文学における「戦争」と「平和」」と題された章が、その批評意識をよく示している。そこで「平成」のあり方を映し出すものとして取り上げられているのは、いずれも一九五二年に刊行された、吉田満『戦艦大和ノ最期』と大岡昇平『野火』という二つの文学作品である。
 
現在あまりよく読まれているとは言い難い『戦艦大和ノ最期』は、もともとアメリカ軍による占領下の日本で、一九四六年に小林秀雄が編集する「創元」に発表されるはずだったが、GHQにより全文削除を命じられた。作者の吉田満は、日本の敗戦が近い時期に特攻作戦で沈没した戦艦大和に乗り合わせていたが、かろうじて生き延びてその最期を叙事詩のように記録しようとした。そこには日本人にとっての生々しい「戦争」があるが、しかしそれは最初にアメリカ軍によって、次いで平和憲法を掲げるようになった「戦後日本」で、見えにくいものにされてきた。
 
一方で、比較的よく読まれている『野火』もおなじだ。戦争中のフィリピン戦線でアメリカ軍の捕虜になった経験のある大岡は、その体験を古典的な完成度をもつ小説に昇華した。だが著者が、作中の「戦争を知らない人間は、半分は子どもである」という語り手の言葉を引いて示すように、ひたすら「戦争」を忘却して表面上の「平和」を追い求めてきた「戦後日本」では、真の意味で「平和」が維持されるということが理解されていない。「平成」の日本もまた、その延長線上にある。
 
つまり本当の「平和」を実現するためには、忘れられてきた日本人の「戦争」をよく思い出さなくてはならないというのが、著者が提起する文学論である。それをはじめとして戦前と戦後の断絶、近代日本の資本主義、家族のあり方の変容、沖縄の問題など、いくつもの重要な論点に幅広く意外な作品を組み合わせることで切り込み、著者は文化の連続性という意味で読者にまっとうな「日本」のあり方を考えさせる。
 
これは「椿説」などではなく、「通説」となるべき論点を示した文学論である。(たなか・かずお=文芸評論家)
 
★とみおか・こういちろう=関東学院大学教授・近現代文学。鎌倉文学館館長。著書に『内村鑑三偉大なる罪人の生涯』『仮面の神学三島由紀夫論』『非戦論』『最後の思想三島由紀夫と吉本隆明』など。一九五七年生。