非国民文学論
著 者:田中綾
出版社:青弓社
ISBN13:978-4-7872-9252-0

「国民」とは?

彼らの「非国民」的な生のあり方を検討する

長瀬海 / ライター・書評家
週刊読書人2020年4月24日号(3337号)


戦時下における「国民」とそこから排斥されている人々の違いは何か。例えば、本書でもたびたび参照される一九三七年に文部省が刊行した『国体の本義』には次のような文言がある。
 
「我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それは家である。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係ではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則とつて家長の下に渾然融合したものが、即ち我が国の家である。」
 
個人ではなく、家を形成する主体。戦時下において「国民」に求められたのは、こうしたパターナリズムに同調した身体性であった。そこでは常に「国の家」を立体的なものにすることが目指された。そのため、例外なく、全ての「国民」には家族として「渾然融合」する責務が生じたのである。だとするならば、ここから自然と除外された人々はどうなるのか。彼らは「非国民」として、いかなる生を営んでいたのか。本書はこのような問いを始点に持ち、そこから「非国民」の肉声の所在を探り始めていく。
 
だから、著者がハンセン病療養者の文学に注目したのは必然だった。当時、ハンセン病を患った人々は徴兵を拒まれたのだが、それは彼らが「国の家」の民にふさわしい身体を持っていると看做されなかったからだ。けれども、社会から隔離された彼らのうちから、世間の注目を集める作品を綴った作家・歌人が現れた。歌集『白描』がベストセラーになった明石海人などである。
 
著者は明石海人のハンセン病療養者としての身体性に着目しながらも、決して「病とその苦悩」という一義的な読みに堕すことはない。「明石海人の身体は、国立療養所に拘束されていて、つまり国家のもとにあった。しかし精神は、どのようなものにも強制されない想像力のうちに飛翔し、跳躍を試みていた」という一文からも分かるように、著者はこの「非国民」文学者の短歌を周辺の言説を踏まえながら精緻に読解することで、身体的敗北と精神的な自由のせめぎ合いのなかから、前者を超越し、後者を獲得した歌人の姿を描出することに成功している。さらに「癩は天刑である」と考えた明石海人が、二・二六事件で処刑された青年将校らと、世間から貼られる「狂」というレッテルを媒介にして、連帯の思いを抱いたのではないかという説を立証していく手つきはさながら推理小説を解読しているかのようであり、社会の日陰と中心という、交わるはずのない空間が重なり合う瞬間に、思わず息を飲んだ。
 
ハンセン病を患った人々は国家の構成員としては認められず、どこまでも「個人」であらねばならなかった。これはひっくり返すと、「個人」であることで、「国の民」となることを忌避することを意味する。それはどのような生のあり方だろうか。著者が参照するのは金子光晴の詩であり、丸谷才一の長編『笹まくら』だ。そこには徴兵忌避者の、不確かな日常を「漂流」するような「寂しい自由」が描かれていた。そのことは「抵抗」という勇ましさを必ずしも意味するわけではない。国からの拘束を逃れるべく、たゆたうことの不安を引き受ける、あるいは卑怯者として戦後を生き続ける。どこまでもよるべない生を自らに運命づけた彼らの「非国民」的なあり方を検討することで、著者は「国民」とは何者だったのかを逆照射するのだ。ここから新たな「国民」文学研究が、きっと、始まる。(ながせ・かい=ライター・書評家)
 
★たなか・あや=北海学園大学人文学部教授・日本近現代文学、三浦綾子記念文学館館長。著書に『書棚から歌を』『権力と抒情詩』など。一九七〇年生。