希望のディアスポラ 移民・難民をめぐる政治史
著 者:早尾貴紀
出版社:春秋社
ISBN13:978-4-393-33377-8

領土に依らないアイデンティティの在り処を探る

ナラティブの掘り起こしが〈正史=イデオロギーの支配〉へ対抗するためのキーになる

『希望のディアスポラ』/『パレスチナ/イスラエル論』

村上靖彦 / 大阪大学教授・哲学
週刊読書人2020年5月8日号(3338号)


早尾貴紀は二〇二〇年はじめに相次いで二冊の大きな著書を出版した。一冊目の『希望のディアスポラ』は「移民・難民をめぐる政治史」という副題が内容を示すとおり、海外から日本への移民、日本から海外への移民、沖縄、各国の移民政策と植民地政策を「ディアスポラ」という視点から読み解こうとする。世界から日本への移民、日本から世界への移民、そして国家を持たなかったユダヤ民族の拡散、植民地から連れられてきた奴隷、紛争によって生じた移民、といったやむを得ずの移民や強制移住の流れとして世界史は書き換えられる。これを著者はあえて「ディアスポラ」というユダヤの歴史の刻印の強い言葉で表現する。
 
もう一冊の『パレスチナ/イスラエル論』は、一九世紀のユダヤ人問題から現代のガザ地区の封鎖に至るパレスチナとイスラエルの紛争の歴史とその解き難い複雑さと曖昧さを膨大な文献のみならず美術や映画にあたって描き出す。
 
二冊を通して読むことで、日本国によって主導された沖縄やアイヌの人々や外国籍の人々に対する人権侵害が、長い世界史のなかに位置づけられ、しかもパレスチナにおけるアラブ人に対する理不尽な暴力とも直接あるいは構造上つながっているということが理解される。本書を通して、私の身近なところで感じる差別や排除の問題が、パレスチナや大航海時代の黒人奴隷にまでつながるという歴史意識を学ぶことができた。
 
二冊の著作を続けて読むときに強く感じるのは、著者の一貫した虐げられた人の視点を取ろうとする態度とともに、折り合いのつかない矛盾を孕んだ多様な要素の集合体として世界がなりたっているということだ。
 例えばディアスポラは流浪したユダヤ人を念頭に置いた表現であり、そこから著者は領土には依らない文化的なアイデンティティの在り処を探る。

「強力なナショナリズムで均質に国民統合を進め、異質な他者を排斥したり支配したりすることが「力」なのではなく、権力や暴力を持たず、他者たちに囲まれながらも文化的アイデンティティを保持したり、越境的に複合的な文化を生み出すことが、ユダヤ思想にある肯定的なディアスポラ主義であり、その「無力さ」こそが逆説的に「力」だと述べる」(『希望のディアスポラ』一六〇頁)

しかし他方で、『パレスチナ/イスラエル論』ではイスラエルのユダヤ人が行ってきた残虐な暴力について細かい例証がなされていく。

「占領と封鎖のせいで〔ガザ地区では〕経済の疲弊もはなはだしく、若者らに職、つまり収入はない。検問所で日常的に展開されるイスラエル兵の行為は、殴打や銃撃がなくとも、圧倒的軍事力を背景にした占領者の侮辱的な目線や命令口調により、日々地元住民の中に屈辱を刻印する。〔…〕占領者は〔…〕半永久的な従属を根底から強いるために、効果的な精神的暴力を日々行使し続ける」(『パレスチナ/イスラエル論』二〇一頁)

著者は建国そのものの時点から正当化不可能な暴力で土地を簒奪し、アラブ系住民の生活を破壊し例外状態に置く暴力の蓄積でイスラエル国家が成り立っていることを、サラ・ロイやイラン・パペといった歴史家の著作の詳細な紹介から明らかにしている。例外状態の産出が国家の創設そのものを規定し、全面化し、持続し続ける。流浪のなかでアイデンティティを手にするユダヤ人と、領土に固執しフェンスにアラブ人を閉じ込め簒奪するユダヤ人という両面が浮き彫りになる。
 
『希望のディアスポラ』が遺棄された人々の移動を主題としているのに対し、『パレスチナ/イスラエル論』は遺棄された人々が狭い土地に閉じ込められることを主題としていると言っても良いかもしれない。どちらも一つの切り口では見通すことができない矛盾と葛藤に満ちた暴力と排除の歴史である。
 
『希望のディアスポラ』では、遺棄された土地としての沖縄から始まり、困難にあった日本人たちの海外移民が日本国からは見捨てられていく姿、そして日本にくる外国人労働者に対する一貫して非人道的な日本政府の扱い、あるいは在日コリアンにおける移動と人々が被った文化の破壊・理不尽な法的扱いあるいは生活上の条件が描かれている。そのなかで著者は冒頭に引用したように「他者たちに囲まれながらも文化的アイデンティティを保持したり、越境的に複合的な文化を生み出すこと」を、ディアスポラのなかから見いだせる領土にはこだわらないアイデンティティのあり方としてかろうじて肯定的に描こうとするのである。
 
もう一方の『パレスチナ/イスラエル論』においても書物の内部に世界の亀裂や矛盾が書き込まれている。そもそもタイトルが、イスラエルとパレスチナの境界線の決めがたさを反映している(これはイスラエルによる侵攻と簒奪の歴史そのものと重なる)(『パレスチナ/イスラエル論』四頁)。
 
そして抵抗の武器としての「表象」がありイデオロギー装置としての「表象」がある。アートや映画によって、虐げられた当事者の視点を描くこともできるし、建国イデオロギーによって当事者を隠蔽することで逆に隠蔽記憶として逆境・理不尽が照らし出されることもある(そして日本もこの建国イデオロギーの流布に加担している)。表象は両義的なのだ。そもそも国民国家の均質な文化を象徴するモニュメントであっても(イスラエル、フランスの教会)、実は異質で多様な文化でできている。
 
さらにはイスラエルのなかにユダヤ人によるユダヤ人差別もある。イスラム諸国から(イスラエルの圧力によって)イスラエルに移住したユダヤ人が受ける差別がある。

「イスラエルの幼稚園へ通いはじめた頃、用心していたのは、会話のなかにアラビア語が混じらないように注意して話すこと、当時は理由もわからずに、アラビア語に恥を感じていた。いまでははっきりと分かる。イラク人であることはタブーだから、それがバレるアラビア語もいけない」(サミール監督の『忘却のバグダッド』(二〇〇二年)のなかのアラブ系ユダヤ人ショハットの言葉:『パレスチナ/イスラエル論』一七二頁)

そしてアラブ人のなかの亀裂もある。占領地に幽閉され無力化され屈辱を受けた若者たちの絶望から「自爆テロ」と呼ばれた行為が生まれるわけだが、テロを試みるのは占領地のアラブ系の若者であって、決してアラブ系党派組織の幹部ではないのだ。

「絶望と屈辱は、潜在的な自爆者を生み出しはする。しかし、彼らを自爆者として勧誘し実行を説得し、自爆ベルトを与えて装着させ、そしてイスラエル領内に送り込む、そのために必要なすべてのおぜん立てをするのは、パレスチナ側の具体的な特定の〔自らは自爆テロに身を曝さない〕政治党派組織である」(『パレスチナ/イスラエル論』二〇四頁)

和解は結局強者による暴力を正当化する欺瞞であることが示されつつ、住民の闘争はつねに虐殺によって終わり、かき消された声を掘り起こそうとする試みはつねに排除されるという絶望的なジレンマにある。そのなかで、ナラティブの掘り起こしが〈正史=イデオロギーの支配〉へと対抗するためのキーになるのであろう。著者はイラン・パペに託しつつ小さな声による複数のナラティブを束ねることによってささやかなしかたで大きな支配と簒奪の暴力に抵抗しうると語るのだ。(むらかみ・やすひこ=大阪大学教授・哲学)
 
★はやお・たかのり=東京経済大学准教授・社会思想史。著書に『ユダヤとイスラエルのあいだ』『国ってなんだろう?』など。一九七三年生。

『パレスチナ/イスラエル論』
出版社:有志舎
ISBN13:978-4-908672-37-8