大学の自治と学問の自由
著 者:寄川条路
出版社:晃洋書房
ISBN13:978-4-7710-3335-1

大学の自治はどこへ行くのか?

その逃れられない深刻な状況を描く

島崎隆 / 一橋大学名誉教授・哲学
週刊読書人2020年5月22日号(3340号)


本書は、寄川氏編著の『大学における〈学問・教育・表現の自由〉を問う』、『大学の危機と学問の自由』に続く、このテーマに関する三作目の著作である。評者も長年大学の教員をやっていたので、身につまされて読み終えたが、大学での自由で創造的な営みが段々と狭められて行く思いがした。七人の著者が関わった論文集であるが、第五章、終章はきわめて短いので、ここでは割愛させていただく。
 
序章「『自治』という名の病」(細川孝)は、「学部自治」をおこなう「民主的な大学だからこそ生じた事態」をあえて問題にする。一部の教員たちが反対したため、教員不補充が続き、そのためゼミに所属できない学生が増えてきたという問題である。学長は教員採用を進めたいと思っているのに、それが妨げられるというのでは、たしかに学部教授会の民主主義が機能しないといえる。この件では、評者には、なぜ教務委員会に集まった教員たちが頑強に抵抗するのか、彼らの顔が見えてこないという印象である。第一章「大学における学問の自由の危機とガバナンス問題」(細井克彦)では、序章と対照的に、大学予算への締めつけ、教授会の軽視、教育系学部や基礎科学・人文社会科学の削減、教育基本法の「全部改定」など、文科省や財界からの大学「破壊」が中心的に論じられるが、大きく国立大学を変貌させたのは、国立大学法人化(二〇〇四年)であっただろう。近年、いかに多種多様に大学が変質と破壊にさらされたか、一目瞭然の展開である。第二章「現行法と大学の自治」(清野淳)では、学校教育法など、現行法の枠内に限って、大学とその自治のあり方について議論する。しかしそれだけ、現行法の上位にある憲法や教育基本法の理念や精神がどのように教育を規定するかという考察はほとんど皆無である。私大について議論するとされているが、教授会が学長の諮問機関とされた以上、学長中心の管理体制が厳然と存在し、それは「大学の自治」の拒否を意味するともいえるという。清野氏によれば、教員とは、設置者である法人の指示のもとで、学生との「在学契約」を遂行するさいの「履行補助者」の一人にすぎない。学部学生の主たる目的は、卒業資格の修得にあるので、「真理の探究」にあるわけではないとされる。「大学の自治論者」を批判する清野氏は、法律上の外形的な議論に終始しているようだ。そもそも氏はいかなる人間を育てたいと思っているのか、そこが見えてこない。教育とは、「人格の完成」を究極目的とするし、教育基本法では、その目標として「世界の平和と人類の福祉に貢献」し、「真理と正義を希求」するとある。これはどのようにして可能なのだろうか。
 
氏の議論と正反対なのは、以上の第一章の議論や、第四章「〈学問の自由〉と大学の〈大学〉としての存在理由」(幸津國生)の主張である。幸津氏は、キリスト教主義を掲げる明治学院大学による、寄川氏の解雇問題が学問の自由に反しており、さらに盗聴という行為が、同大学のキリスト教による人格教育(他者への貢献)という理念や建学の精神にも反しているということを、説得的に論証している。第三章「裁判所における事実認定の実務」(杉山和也)は、卒業論文の指導をめぐって、セクハラ、アカハラなどがあったかどうかを、裁判にそって解明する。本書は現在の大学の逃れられない深刻な状況を描いているので、在職の大学教員の人たちに是非お勧めしたい。(しまざき・たかし=一橋大学名誉教授・哲学)
 
★よりかわ・じょうじ=明治学院大学教授・哲学・倫理学。著書に『教養としての思想文化』など。一九六一年生。