地に這うものの記録
著 者:田中慎弥
出版社:文藝春秋
ISBN13:978-4-16-391183-0

言葉の軽さと父親の不在

日本語による現代文学の困難さがありありと映し出される

田中和生 / 文芸評論家
週刊読書人2020年6月19日号(3344号)


語り手が人間ではないという小説は、日本の近代文学史上でもけっこうある。まず近代黎明期には語り手が猫である夏目漱石『吾輩は猫である』(一九〇五〜六年)があり、それから井伏鱒二の中篇「川」(一九三一年)は語り手が川のように感じられる仕掛けになっていて、また藤枝静男の『田紳有楽』(一九七六年)ではグイ呑みや抹茶茶碗が語り手として出てくる。比較的近いところでは語り手が数字の0だという、人を喰った川崎徹の長篇『0(ゼロ)』(一九九八年)などもある。
 
児童文学では動物が語り手という作品もめずらしくないが、本書の語り手はネズミである。といって、そこでは動物が擬人化されたファンタジーが展開されているわけではない。なぜか言葉をあやつれるようになったクマネズミの「僕」が、実際に人間に話しかけて意思疎通できるリアリズム的な世界が描かれている。そうして作品は、そこから引き起こされる騒動を追っていく一種の思考実験になっている。
 
作品の展開を説明しておけば、人間の世界で建て替え問題が発生している「駅前第一号ビル」に住んでいる「僕」は、跡地を公園にするという案が出てきている状況で、従来どおりの新ビル建設を訴えている市議会議員の女性「浦田さん」に話しかけ、住処を奪われつつある存在として政治に介入していく。政策的に「浦田さん」と利害が一致する「僕」は、言葉が話せることでマスコミから注目され、また秘書である女性「玉木さん」と恋愛関係にある「浦田さん」が性的マイノリティとして取り上げられることも手伝い、相乗効果的に影響力をもつようになる。折に触れて差しはさまれる新聞記事で、人類史の常識をくつがえす主張もしていく「僕」は、やがて市議会に招かれて質疑と演説を行う。
 
ネズミの視点で人間の世界を相対化し、そこにある問題を浮かび上がらせる試みとして読んでもいいのだが、作品を通して強く印象に残るのはなにより「僕」の饒舌さである。それは語りつづけていないと「僕」が消滅してしまうといった、強迫神経症的な饒舌さだが、おそらくそれは言葉によってしか存在しない「僕」が、実はその言葉を信じることができていないからである。
 
どうしてそうなるのか。それはこの作品があえて日本の近代文学史と切り離されたところで書かれているからであり、そのことは「僕」の名前が「ポール」で、また言葉をあたえてくれた父親が「パパ」と呼ばれることで示されている。わたしがその「僕」に託されていると感じるのは、アメリカ合衆国に占領されることによってはじまった「戦後日本」における言葉の軽さであり、その言葉を信じられるものにしてくれる父親の不在である。そしてその問題は現在の日本語に通じるが、だからそこには日本語による現代文学の困難さがありありと映し出されているのである。(たなか・かずお=文芸評論家)
 
★たなか・しんや=作家。二〇〇五年「冷たい水の羊」で新潮新人賞受賞。〇八年「蛹」を収録した作品集『切れた鎖』で三島由紀夫賞、一二年「共喰い」で芥川賞受賞。一九年『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞受賞。一九七二年生。