三浦按針 その生涯と時代
著 者:森良和
出版社:東京堂出版
ISBN13:978-4-490-21028-6

「等身大のアダムス」を構築

内外の史料を読み解き人物像を検証

川成洋 / 法政大学名誉教授・英文学・スペイン現代史
週刊読書人2020年6月19日号(3344号)


一六〇〇年四月、豊後(大分県)の沿岸に、難破船のような大型西洋船が投碇した。近郊の狼藉者たちがこの船に乗り込み、あらん限りの掠奪を働いた。乗組員は彼らを阻止できなかった。二四人の乗組員のうち歩行可能者はわずか五人、だったからである。
 
この西洋船は、三〇〇トンのオランダ船リーフデ号。
 
二年前の六月、一一〇人の乗組員を擁するリーフデ号は、オランダの五隻の武装商船団として出港する。当時の商船団は、武装していた。一言で表現すれば「戦争と貿易と海賊は三位一体」(ゲーテ『ファウスト』)といったところか。
 
この五隻の船団がアフリカ沿岸を航海し、厳寒期の「マゼラン海峡」から太平洋に突入した途端、強烈な暴風雨に襲われ、船団は四散。リーフデ号は旗船ホープ号とともにアジア方面に向かうが、小笠原諸島近海で猛烈な暴風雨に巻き込まれたホープ号が行方不明となり、リーフデ号だけが、豊後に到着する。実に惨憺たる航海であった。
 
長崎奉行は、リーフデ号の中に一九門の大砲など大量の兵器類を発見、直ちに大坂の徳川家康に上申する。船は遺失物として堺に廻航され、船長の代理として、イギリス人の航海士ウィリアム・アダムスが乗員一人を伴い、大坂に向かう。家康はアダムスに引見。彼の海外情勢、カトリックとプロテスタントとの対立、イエズス会とフランシスコ会との確執、航海術、数学、幾何学といった新しい学問や情報が家康を驚愕させたのだった。さらに、家康には垂涎の的であった八〇トンと一二〇トンの西洋船を造船したことなどで、アダムスは家康の寵遇を受け、一六〇八年、江戸日本橋の屋敷、相模国三浦郡逸見に采地を下賜される。旗本・三浦按針の誕生であった。
 
九死に一生を得た「海の男」として、また大航海時代の覇権を奪おうとするスペイン、ポルトガル、イギリス、オランダなどの列強からも「皇帝」と尊称されていた家康に、わずか八年で、旗本に叙された強運の「青い目をしたサムライ」として、アダムスが血沸き肉躍る「歴史小説」のテーマとなるのもうなずかれる。時には、執筆者の想像力が史実以上の人物像を創り上げることもありうる。それ故に、歴史上の人物がいかにして文学という虚構の世界に入り、そこで独自の生命をもっていったかを探りたくなる。
 
本書は、三浦按針とその時代をめぐる内外の史料を読み解くことで、「等身大のアダムス」を構築しようとしたのである。例えば、アダムスが、一六〇〇年九月の関ヶ原の戦いに大砲とともに参戦し、その軍功によって旗本になったという説。ちなみに、二〇一八年四月に放映されたアダムスを扱ったNHKのテレビ番組(「歴史秘話ヒストリア」)の中で、徳川陣営が小早川秀秋の出撃を促すために、その「問鉄砲(といてっぽう)」としてリーフデ号の大砲を使ったという説。これに対して、本書は、①関ヶ原の戦い以前に、小早川は密かに徳川陣営に組していた。②九月一日に江戸を出陣して一四日に、四〇〇キロも離れた関ヶ原の近郊に、大砲も一緒に行軍するのは不可能である。③大砲のセッテイングに相当時間と手間がかかるが、活動可能なオランダ人は少なすぎる。④幕府からオランダ商館に平戸から長崎への移転を命じられるが、それの撤回を求めて、関ヶ原の戦いでの功績を明確に主張するはずだが、そのような記述は皆無である。以上のような理由で、アダムスらの関ヶ原参戦説は「後世の創作」であると結論づけている。その他、リーフデ号のハワイ寄港説、イギリスの北東航路の開拓に彼の関与説も否定している。つまり、「歴史文学」には執筆者側の強烈な思い込みが働く場合があるのだ。
 
そういえば、シェイクスピアの「四大史劇」でも、史的検証に耐えられない致命的な誤謬があり、例えば『リチャード三世』と『ヘンリー五世』の主人公(である国王)は虚像であり、歴史上の人物とは全くの別人である。現在、この現象は「シェイクスピア・シンドローム」と言われている。もっとも、イギリス文学においては、「評伝文学」、「伝記文学」という文学ジャンルがしっかりと屹立している、ということを付言しておこう。(かわなり・よう=法政大学名誉教授・英文学・スペイン現代史)
 
★もり・よしかず=元玉川大学通信教育部教授。著書に『リーフデ号の人びと』『歴史のなかの子どもたち』など。一九五一年生。