弁証法、戦争、解読 前期デリダ思想の展開史
著 者:松田智裕
出版社:法政大学出版局
ISBN13:978-4-588-15106-4

デリダ哲学についての秀逸な研究書

最初期の思想が孕んでいた問いかけを抽出

廣瀬浩司 / 筑波大学教授・フランス思想
週刊読書人2020年6月19日号(3344号)


デリダ哲学についての秀逸な研究書である。
 
題名だけを見た人は、証言、赦し、正義といった、政治的・倫理的な転回以後のデリダの主題の解説を期待するかもしれない。またそうした主題がすでに前期思想において育まれていたことを指摘する論者も多いので、本書もそのような書のひとつと考えてしまうだろう。
 
しかしながら、そうした主題はほとんど扱われない。それどころか、原エクリチュール、他者、アポリア、代補、散種といった、デリダ思想の中核をなすきらびやかな概念も、事後性や喪といった、精神分析的な主題も登場しない。また「生は死で『ある』」といった、デリダらしい自己撞着的な表現や誇張的な方法もかえりみられない。そもそも「前期デリダ思想の展開史」と題されながら、『声と現象』や『グラマトロジーについて』すら、主題的には論じられないのだ。要するに本書は、「形而上学の超克」や「主体の死」といったポストモダン的な主題を意図的に回避している。エクリチュールの「物質性」といった「唯物論」的読解も明快に退けられる。こうした周到な作業の結果、主に「差延」という用語をとりまく哲学的な問いかけの数々が、くっきりと浮かび上がってくる。
 
とはいえ、本書は現象学研究者としての最初期のデリダのたんなる解説書でもない。たしかに本書の前半の考察を支えるのは、時間論や歴史論を中心とする、フッサール哲学との対話であり、現象学の可能性に対する問いかけである。「差延」は最初期には「弁証法的軋轢」という主題のもとに思考されていた。これはフッサール現象学において、「構成するもの」が「構成されるもの」にたえず問い返される力動的な事態を指している。本書はこの概念が、ピカール、タオといった今ではあまり知られていない現象学者や、カヴァイエスなどの相対的にマイナーな思想家との対決によって、「ポレモス」の哲学として練り上げられていったことをていねいに示していく。
 
そのこと自体はとりわけ独創的ではないと思われるかもしれないが、本書の魅力は、そうした実証的で内在的な分析が、著者の繊細かつ厳密な問いかけの連鎖に取り巻かれ、「差延」という概念に結実していくゆるやかなプロセスにある。「展開史」と呼ばれるこのプロセスが快い読書経験をもたらしてくれる。その延長に論じられるアルトー、ハイデガー、アクセロスといった思想家との対話において、差延概念の問題系が拡がっていく過程の分析も興味深い。本書で「解読」と呼ばれる、解釈者自身を問いに付すような「別の意味」のたえざる模索が、そこでも実践されているからだ。
 
おそらく著者は、後期のデリダが、その思想の多様な拡がりにもかかわらず、しだいに自己反復的、自己模倣的になったと考えているようにおもわれる。だからこそ、そうした後期思想の視点から前期思想を回顧的に読み込むのではなく、最初期の思想が孕んでいた問いかけの数々を、その哲学的な純粋さにおいて抽出しようとしているのだろう。これは豊かな方法である。なぜならば、それはすでにできあがってしまったものとしてのデリダ思想の形成史にとどまらず、それがほかの方向に進むこともできたことも示しうるからだ。華々しいデリダに追随するかわりに、本書はすでに、デリダ思想の内部に、それとは異なる思想を重ね書きしている。それがいつか展開するときには、著者はおそらくデリダ論の枠組を越えてゆくだろう。(ひろせ・こうじ=筑波大学教授・フランス思想)
 
★まつだ・ともひろ=立命館大学初任研究員・フランス哲学。立命館大学大学院で博士号(文学)取得。一九八六年生。