カオス・領域・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング
著 者:エリザベス・グロス
出版社:法政大学出版局
ISBN13:978-4-588-01113-9

建築、音楽、絵画から芸術の存在論を論じる

思弁的なトーンと具体性を帯びた筆致がもたらす鮮烈な印象

須藤健太郎 / 東京都立大学助教・映画批評
週刊読書人2020年6月26日号(3345号)


手に取って、小さな本だとまず思う。思わず背筋がぴんと伸びる。本の佇まいを感じ取り、すっと身構えて読み始めると、著者が冒頭で「この小さな書物」と書き付けている。ああやはり、これは意図的な小ささだったか。ところが続けて目に入るのは「芸術の存在論」という大きな言葉。この本はかまえこそ小さいけれど、その向かうところは芸術の存在論をめぐる大きな問題群なのだ。いや、冒頭の一文にある小から大への転換こそがこの書物を貫く修辞であれば、小さなものはかならず大きなものを呼び込み、あるいは大きなものはきまって小さなものの中に凝縮される。そんなたえまない往来の運動こそ芸術の本来であるとエリザベス・グロスはどこかで確信しているのかもしれない。
 
本書は三章からなり、順に建築、音楽、絵画が主として扱われるが、いたって思弁的だ。芸術の存在論とは「芸術の物質的および概念的な[諸]構造」のことだと定義され、その存在論的考察のために建築、音楽、絵画の三つの「起源」が論じられる。芸術一般が生まれてくるための条件が主にドゥルーズとガタリの著作を参考にしながら素描されていく。参考にしながら、というのは著者自身の態度でもあるが、読む側もまたそれを強いられる。註というかたちで『千のプラトー』や『哲学とは何か』などから印象的な箇所がふんだんに引用され、グロスの議論を追うことはそれを成り立たせている原典をそのつど読むことになるからである。読者はときに註に読み耽ることもあるだろう。
 
ところで、建築、音楽、絵画と三つが並ぶとはいえ、「芸術は動物に由来する」と言い切ってみせる著者によって「あらゆる芸術においてもっとも始原的で動物的なもの」と形容される建築にはやはり特権的な地位が与えられており、建築に続いて音楽と絵画が選ばれるのはより個別の議論を導くためだろうという印象を持った。音楽は「芸術のなかでもっとも誘惑的なもの」「もっとも無媒介的に幸福感を高めてくれるもの」「もっとも直接的に魅了する(あるいは同じく激昂させる)芸術」とされ、ダーウィンによる性淘汰(「性的パートナーを誘引する能力」)の理論を芸術の問題として論じ直すために必要とされている。また絵画はどうかというと、ドゥルーズのフランシス・ベーコン論(『感覚の論理学』)を引き継ぎ、議論をさらに展開させるためであり、オーストラリア出身の著者がよく知るアボリジニ芸術を論じることでそれが試みられている。
 
第三章のなかば、それまでの思弁的なトーンから一転、とたんに筆致が具体性を帯びて鮮烈な印象をもたらす。表紙に使われているキャスリーン・ペチャラの絵画もはじめは単調なモチーフの反復にしか見えなかったが、読後はすっかり見え方が変わる。ドットは視覚に訴え扇情的に現れては音楽のように振動し、身振りは踊りとなってリズムを刻み、大地とそこに住むものすべての力となって感覚が噴出していく。画布の上で、大地も人間も動物も出来事もすべてが等しく生み出されていく。〆にして開放的ともいえるだろうか。圧巻の終わりかた。(檜垣立哉監訳)(すどう・けんたろう=東京都立大学助教・映画批評)
 
★エリザベス・グロス=哲学者。デューク大学教授。オーストラリア生まれ。フランス現代思想の研究と紹介を行いつつ、身体や進化などの観点からフェミニズム理論やジェンダー論の領域で独自の仕事を展開。一九五二年生。