女同士の絆 レズビアン文学の行方
著 者:平林美都子
出版社:彩流社
ISBN13:978-4-7791-2675-8

英米加(カナダ)レズビアン文学の見取り図

十九世紀初頭のコールリッジから現代、小説から詩、映画化作品まで

伊藤氏貴 / 文芸評論家・明治大学文学部教授・文芸メディア
週刊読書人2020年6月26日号(3345号)


最初に謝っておくと、英語圏文学は門外漢で、ここでとりあげられている主な十の作品のうち、既に読んだり見たりしていたのは四作しかなかった。私にお鉢が回ってきたのは、日本の同性愛文学を読んできたからだろう。私は、ゲイ・スタディーズやクィア・スタディーズを安易にそのまま日本の近代文学にあてはめることには反対である。それは、同性愛のあり方が時代や場所によって大きく異なっており、西洋キリスト教世界独特の抑圧下での同性愛から生まれてきた研究は、少なくとも少し前までの日本の同性愛には合わないからだ。
 
だから西洋の作品にその研究を用いるのには何の異論もないが、西洋の場合また難しいだろうと思われるのは、同性愛そのものだけでなくそれを研究するアプローチも、二十世紀後半以降非常に目まぐるしく変化しているため、どのアプローチをもってどの時代の作品を扱うのか、という大きな問題が生じるからである。
 
そのことは本書の序章でも、実は「レズビアン文学」以前に「レズビアン」ということば自体の定義すら確定していないことが告白される。この厳しい状況の中で、しかし著者たちは特定のアプローチに依拠するよりも、作品の側に寄り添って、英米カナダのレズビアン文学の大きな見取り図を示そうとしている。時代も十九世紀はじめのコールリッジから現代まで、ジャンルも小説ばかりでなく、詩や映画化作品まで。作品紹介と選書リストもあり、この分野に関心を持つ人間にとっては必携とも言える。
 
個人的には、第六章のマクドナルド『おやすみデズデモーナ(おはようジュリエット)』という戯曲をぜひとも読んでみたくなった。ただ邦訳はまだないとのことなので、辞書と首っ引きで格闘するか、上演を待つか……。
 
既読の作品で少しだけ疑問が残ったのは、第二章の『赤毛のアン』についてである。マリラのアンに対する特異な愛情を語り手が一種の「母性愛」と名付けるのが一種の隠蔽工作だとするのは興味深い。その感情にマリラ自身が戸惑い、アンへの愛情表現を自らに禁じるのはたしかに不自然だ。しかし、それをレズビアンとまで言えるかどうか。
 
日本の場合、石井桃子の自伝的小説『幻の朱い実』がレズビアン小説として読まれたとき、作者自身は当時「レズビアン」と言われていたのとは違う、と明確に否定した。石井の作品の場合、読みどころは友情でも恋愛でも家族愛でもない、いわば名づけえない二人の特殊な関係性そのものにある。
 
『アン』の場合も、語り手が「母性愛」と言いつつも、しかしそれを超えている何かがここにある、と指摘するところで止めておいて十分なのではないか。論者が「彼女自身もそれを言葉で説明することができない」というとき、しかし当人にそれがレズビアン的感情であることを説得できるだろうか。問題はやはり神との関係だ。これが「神への罪になりはしないか」という疚しさは同性愛だけを指し示すのだろうか。レズビアン小説として括るなら、門外漢にはこの部分の説明がもう少しほしいところだが、しかし、語り手の「母性愛」を疑うだけでも読みとしては十分おもしろかった。こういう良心的な研究・紹介を各国文学で読みたいものだ。(いとう・うじたか=文芸評論家・明治大学文学部教授・文芸メディア)
 
★ひらばやし・みとこ=愛知淑徳大学文学部教授。博士(文学)。著書に『「辺境」カナダの文学 創造する翻訳空間』『表象としての母性』『「語り」は騙る 現代英語圏小説のフィクション』など。