乃木坂46のドラマトゥルギー
著 者:香月孝史
出版社:青弓社
ISBN13:978-4-7872-7431-1

「戦場」を避け静かに成熟する可能性

乃木坂46の演劇性を丁寧に読み解く

濱野智史 / 情報社会論・メディア論
週刊読書人2020年6月26日号(3345号)


演劇とはなにか?コロナショックを受け、演劇をはじめとする芸術全体の存在意義が問われる昨今、興味深い批評的視点をもたらしてくれるのが本書である。

とはいえ、首肯しかねる方も多いだろう。いかに人気とはいえ、「乃木坂46」というアイドルグループから、そんなことが分かるというのか?この誰もが抱くであろう疑問に、本書は見事にメスを入れていく。

そのタイトルどおり、本書は乃木坂46の特に演劇性に批評的なフォーカスを当てている。そもそもアイドルは常になんらかの「キャラ」を演じることを強いられる存在だが、本書は乃木坂46がこれまで生み出してきた演劇・MV・ドキュメンタリー映画といった作品を読み解きながら、「いかに乃木坂46というグループが、アイドルに求められる役割期待からズレつづけてきたか」という歴史を描き出し、その〈可能性の中心〉を鮮やかに取り出してみせる。

そこで明確な批判対象となっているのが、AKB48グループ(以下、AKB48と総称)である。元メンバーの峯岸みなみが、「恋愛禁止条例」に違反したことから(自主的に)丸坊主にした事件は、まだ記憶に新しい読者も多いだろう。世界的にも物議を醸したあの事件一つとっても、AKB48はある種日本の「恥部」である。

それだけではない。かの悪名高きAKB48の「総選挙」のような「集金イベント」では、「ガチ」や「マジ」といったプロレス的表現も乱発され、それがいかに過酷な「戦場」であるかが強調される。著者も指摘するように、かくしてAKB48では旧弊で男性的なマッチョイズムがいまだ支配的となっている。

これに対し、本書が示す乃木坂46その〈可能性の中心〉とはなにか。それはこうしたAKB48的な「戦場」にコミットメントしないという、ある種のデタッチメントのあり方なのだと著者は指摘する。乃木坂46というアイドルグループが、いかにして大人たちが作り上げた「戦場」を回避しつつ、「静かなる成熟」を遂げていくのか。そのドラマトゥルギーを本書はきわめて美しく、丁寧に読み解いていく。

そしてこれこそが、いま私達の日本社会にとって求められているドラマトゥルギーではないかと評者は考える。私達はいま、ポピュリズムに満ちた〈劇場〉型政治において、あまりにも〈激情〉に駆られた議論をしすぎてはいないか?乃木坂46の到達した「静かなる成熟」とは、実は日本社会が目指すべき、熟議的民主主義のストーリーではないか?これはそれほどおおげさな問いではないと、評者は考える。

ただし本書については批判も残る。たとえばその一つが、「乃木坂46は単に旧来的なマスメディアやレコード会社といった大規模資本から優遇された(むしろルッキズムの観点ではAKB48よりも露骨な)アイドルグループであり、単にガチな『戦場』に向き合わずに済んでいるだけではないのか」というものだ。つまり「静かなる成熟」とは、ごく限られた一握りの特権的エリートだけに許された道なのである。

しかし、その批判はひとまず横に措くとしよう。むしろ評者が考えたいのは、これからの日本社会において、「戦場」を避けて成熟することは果たして可能なのかについてである。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』の言葉を借りれば「平坦な戦場で僕らが生き延びること」。それは『下り坂をそろそろと下る』(平田オリザ)とは決して同じではない。なぜならグローバル資本主義の「平坦な戦場」から降りることは、もはや誰もできないからだ。リベラルな社会を維持するためにこそ、最低限の経済成長は必要だと評者は考える。

少なくともそのための一つの主力な日本の創造力の源が、乃木坂46(やその元祖であるAKB48)のようなアイドルグループが持ちうるドラマトゥルギーであるということを、本書は確信させてくれるのである。(はまの・さとし=情報社会論・メディア論)

★かつき・たかし=文筆家。ポピュラー文化を中心に執筆、ライブ評・舞台評なども手がける。著書に『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』など。一九八〇年生。